孤高の人 第四章 山頂 [#地から2字上げ]新田次郎   目次  孤高の人   第四章 山頂  解説(尾崎秀樹)     第四章 山頂      1  加藤文太郎は列車の中でつぶやいた。 「結婚式は明日の午後三時からである。この汽車で行くと夜の八時に浜坂に着く。そうすると、まるまる半日は、ぼんやりと結婚式を待っていることになる」  そして、加藤は午後三時の結婚式までの半日間をどうして暮そうかと考えた。嫁と違って|婿《むこ》には、なんの準備も用意も不要であった。  結婚式は生家ですることになっていた。田舎の結婚式だからさぞかし|賑《にぎ》やかなことであろう。彼は生家の玄関を出たり入ったりする人のことを思い浮べた。いつもしまっている二階の窓が開け放されて、|親《しん》|戚《せき》の子供|等《ら》が、|格《こう》|子《し》|戸《ど》にすがって、お嫁さんが来るよと叫んでいる姿が見えるような気がする。  加藤はその窓から、おおぜいの人にかこまれて兄嫁が、彼の家へ入って来るのを見ていたことを思い出した。たしか彼が、神港造船所の研修所に入る前の年だった。  兄嫁が敷居をまたいで家へ入ったのを見てから、彼は、なんとなくその|眼《め》を前へ投げた。青空の下に|観《かん》|音《のん》|山《やま》がそれまでに見たこともないように大きく美しく見えていた。秋のおわりころだった。忘れられないひとこまだった。 (そうだ観音山へ登ってみよう)  |僅《わず》か二百数十メートルしかない山だったが、山には違いなかった。その観音山のいただきから生家へ向っておりていくのだ。 (お婿さんが山からおりて来たと人はいうだろう。いかにもおれらしいやり方ではないか)  加藤は|香《か》|住《すみ》で下車した。香住町は浜坂の三つとなりの町であった。翌日は、香住、|鎧《よろい》、久谷と日本海ぞいの町を歩き抜けて、そして、和田、赤崎、田井の村を通って観音山へ登ろうと思った。ざっと道程を計算しても香住町から観音山までは二十五キロある。しかも雪の道であった。だが、加藤にとってはそのぐらいの道程はたいしたことはなかった。研修所時代には一日に百キロ歩いたことのある彼だった。速足の文太郎と異名を取った彼のことだった。常人の倍の速度で歩く彼に取っては、そのぐらいの距離はなんでもなかった。  彼は香住町の宿に泊るつもりはなかった。そこまで来て泊るくらいなら浜坂まで行ったほうがましだった。彼は、彼の独身の終止符を打つべき夜を野宿と決めた。  彼は懐中電灯をたよりに、日本海岸に出て、砂の浜辺を下浜まで歩いていった。空が曇っているので弁天島は見えず、日本海はただ黒く広く見えるばかりであった。  砂浜はかなり風が強くて寒かったが、ものかげに入ると暖かだった。海のかおりがなつかしかった。彼は、このなつかしい海のかおりを捨ててなぜ山に走ったのだろうかと思った。もし山に走らなかったら、自分は海へ向っただろうと思った。暗い海では波が歌いつづけていた。波頭が岩に当ってくだけて散るとき、わずかながら波の動きが見えた。  加藤は、浜に引きあげてある舟のかげで、眠る準備をした。舟のかげには雪があった。彼は、山で野宿をするときと同じように、着られるものは全部身につけ、ルックザックの中に|靴《くつ》のまま足をつっこみ、頭から|雨《あま》|合《がっ》|羽《ぱ》をかぶって|海《え》|老《び》のように背を丸くした。波の音が山の音に似て聞えた。波の音も、山の音も一定の周期があった。なぜ似ているのだろうかと考えているうちに眠くなった。  翌朝は、日本海沿岸のこのごろの天気としては、異常なほどよく晴れていた。空は真夏の空のように晴れあがり、|燦《さん》|々《さん》と太陽の光が降りそそいでいた。加藤の結婚の日を祝福するかのようであった。 「すばらしい天気だな」  彼はそうつぶやいて起き上って海に向って体操をして、甘納豆と|乾《ほ》し小魚を食べて水を飲むと、こんな日に、観音山ひとつだけではもったいないと思った。彼は観音山へ登る前にもうひとつ山を|稼《かせ》いでやろうと思った。彼は地図を開いた。  丸谷の北東方に|檜《ひ》|原《ばら》山(五五〇・七メートル)という山があった。彼の地図にはその山への赤い線が書いてなかった。経路に朱線を入れてないことは登ったことのない証拠であった。 「灯台もと暗しとはこういうことだ」  彼はしばらく地図と取り組んだ。檜原山へ登っても、午後の三時までには生家へ行きつける目算が立った。  だがしかし、彼の計画はいささか甘かった。檜原山は高度は低かったし雪もなかったが、登り道がなかった。道がなくても、雪が積っていれば、スキーで森林の間を行くという手があるけれど、その森林が、雑木林の密林であった。スキーで踏みこもうとしても踏みこみようがなかった。加藤は登り口をさがすために、檜原山の周囲を|廻《まわ》らねばならなかった。海に面した方は松林だった。その松林と雑木林の境界に頂上へ続く道らしいものがあった。  加藤は檜原山の頂上に立った。頂上は樹林におおわれていたが、|梢《こずえ》の間から冬の日本海が見えた。そこから見る日本海の海の色はみどりが勝った鮮やかな青色だった。生き生きと感じられた。同じ海でも神戸の海とは違って見えた。  加藤は檜原山をおりて、一度久谷に引き返すと、久谷川にそって少し西下し、すぐ方向を北に取って、和田村から赤崎村、田井村へと歩いていった。田井村は、田井浜を持った小さい漁村だった。村が小さいのに寺が三つにお宮が二つもあった。浜に出ると、|奇《き》|巌《がん》と松の対照が美しいところであった。加藤は少年のころ、ここまで遊びに来たことがあった。  田井村の隣の|指《さし》|杭《くい》の部落から観音山へ登る裏道があった。  加藤はここまで来て時計を見た。午後の二時半を過ぎていた。三時の結婚式に間に合わせるためには、観音山登山をせずに、生家へ帰るべきであった。しかし加藤はそこまで来て、彼が観音山に登らないのは、独身最後の山行のすべてが失敗に終ったことのように考えられてならなかった。観音山のいただきから彼の生家に向って一気に|駈《か》けおりていくのが、彼の結婚にもっともふさわしい行事のように考えていた彼は、そこで計画を変更するつもりはなかった。ぎりぎり三時に生家につけばいいと思った。彼は、着がえなぞ考えていなかった。そのままの格好で結婚式場にのぞむつもりでいた。  彼は観音山に登りだした。スキーは邪魔だからかついで、雪の山道をごそごそ登っていった。  観音山のいただきには無人寺があった。そこから彼は、彼の故郷浜坂をしみじみと|眺《なが》めおろした。  眼下に岸田川が流れていた。岸田川をへだてて向うに眼をやると、左から雪をいただいた三成山、空山、|摺《すり》|鉢《ばち》|山《やま》を背景として、古墳のように、こんもりと小さくて丸い秋葉山、|愛宕《あ た ご》山、そして|宇《う》|都《づ》|野《の》神社の山が見えた。そして浜坂の町は、岸田川の流域にそって、上流側に頂点を置いた細長い三角形となって|展《ひら》けており、その底辺の中間あたりに加藤の生家の赤い|瓦屋根《かわらやね》がはっきり見えた。  呼べばすぐ答えが来そうなくらい近くに見えた。彼は口に手を当てた。子供のころはここにこうして立って、声をかぎり呼んだものだった。 (花子さん、いま行くぞお)  と呼んでみたいと思った。実際にはそんなことは恥ずかしくていえなかったが、いってみたかった。そう呼べなくても、花子さんとひと声呼んでみたかった。彼はあたりを見廻した。人がいるはずはなかった。加藤は、海から吹き上げて来る空気を腹いっぱい吸いこんだ。海上に輝くまぶしいものを見た。そのまぶしさが、邪魔して、花子さんという声が出なかった。そのまぶしいものに眼をそむけると、生家に眼をそむけることになった。彼は思い切って眼をつむった。そして彼は、はっとした。まぶしいのは、海からの反射光線だった。太陽が西に傾いて、海が輝いているのだ。  彼は時計を見た。午後の三時は過ぎていた。  加藤は生家に向って山を走りおりた。  結婚式におくれることは花子を悲しませることになるのだと思った。急ぐと、かついでいるスキーが、木の枝にひっかかって思うように進まなかった。彼はいくどかころんだ。  加藤の生家では、昼を過ぎたころから加藤の到着を待ちわびていた。汽車がつくたびに駅へ迎えが出た。婿のいない結婚式なぞあり得ないことだった。文太郎の伯母はひどく|機《き》|嫌《げん》を悪くしていた。 「いったい文太郎はなにをしているのだろうね、こっちの気も知らずに」  その文太郎が山へ行ったことを知っている者はいなかった。いかに山が好きでも、結婚の日に山へ行くと想像する者はいなかった。  花子の家の方へは文太郎がまだ到着していないということはいいにくかったが、文太郎が一時の汽車に乗って来なかったことがわかってからは、かくしておくことはできなかった。使者として文太郎の伯母が花子の生家へ行った。 「もうしばらくお待ちください。文太郎は必ず来ます。文太郎に限って、約束をたがえるような男ではありません。きっとなにかあったのです。あの子は少々おっちょこちょいだから、汽車の時刻表を読み違えて一汽車おくれたのかもしれません……きっとそんなことだと思います」  苦しいいいわけだった。  三時になっても文太郎がまだ現われないと聞いたとき、花子はちょっと眼を上げて、彼女の母のさわの顔を見た。母がどんな顔をしているかを|覗《のぞ》き上げる眼つきだった。花子自身の表情には、なにも起ってはいなかった。文太郎が遅れたことで、なにをそんなに大騒ぎしているのだろうかといったふうな、むしろけげんな顔だった。  さわの顔はひどく混迷していた。まるでさわが結婚式を上げる花嫁御寮のような動揺のしかただった。ね、花子、つぎの汽車で文太郎さんはきっとくるよ、といっているさわの声は半ば泣いていた。  彼女の母が文太郎が遅れたとひとこといったとき、花子は、文太郎からもらった最後の手紙の一節を思い出していた。 「明日新居に引越します。がらくたを全部運びこんで置いて、山道具だけ持って、結婚式前の数日を山で暮そうかと思っています。このことは伯母には内緒にして下さい。こわい伯母ですから……」  加藤がそのとおりのことをやったに違いないと思った。来ることがわかっているのだから、時間のことをそう神経質にいうことはあるまいと思った。しかし、花子は、その堅苦しいいで立ちで一時間も二時間も待つのはつらいなと思った。  三時半を過ぎてから、花子の家へ使いの者が来た。 「文太郎さんが来ましたよ。観音山から登山姿でおりて来ました」  その声は花子にもよく聞えた。花子は思わず微笑した。加藤らしいやり方だと思った。  使いのあとから、文太郎の伯母がやって来て、 「ほんとうに申しわけありません。とにかく、|泥《どろ》だらけですから|風《ふ》|呂《ろ》へ入れて着替えをさせますからもうしばらく待って下さい。ほんとうに文太郎っていう子はなんていう子でしょう。結婚の日に山へ行くなんて、なんともはや申しわけがございません」  文太郎の伯母が雪と泥とを取りちがえて、雪だらけというところを泥だらけといっているのが花子にはよくわかった。  花子はとうとう小さい声を出して笑った。笑ってからその声が、文太郎の伯母や彼女の母に聞えなかったかどうかを気にした。ふたりの女は文太郎が無事結婚式に顔を出したということで、まるで死んだ人間が生き返ったように|昂《こう》|奮《ふん》していた。花子のこまかい感情の変化など見てはいなかった。 「しかし、あの文太郎も花子さんをお嫁さんに迎えたら、もう山へは行けません。文太郎の首に|縄《なわ》をつけて、その縄の先を花子さんにちゃんと持っていてもらいますから」  文太郎の伯母は花子の母にいった。 (なぜ、あの人はそれほど山が好きなのだろうか)  花子はふと考えた。ついぞ、そんなことを考えたこともなかったのだが、花子はそのときはじめて、彼女の夫となるべき男が、いかに山に深い関心を持っているかを知った。  花子は、文太郎に新しい認識を持った。結婚式の始まる寸前まで山に情熱を燃やしつづけようとしている加藤文太郎という男の、彼女の知らない面をはっきり見せられたような気がした。だが、それで、花子が加藤に対し抱いていた気持が変るというものではなかった。  花子が文太郎に抱いている淡い恋心に似たものの源泉は、彼女がまだ三尺帯をしめていたころ、宇都野神社の石段で、文太郎に|下《げ》|駄《た》の鼻緒をすげかえてもらったときに始まっていた。花子にとっては文太郎と結ばれることは幼いその時からはっきり決められていることのように思われていた。  花子は加藤を信じていた。いかなることがあっても、加藤が一方的に婚礼の式を投げ出すようなことがありようはずがないと思った。しかし、婚礼が目前にせまった、いまになって、加藤文太郎と山というものを切り離しては考えられないのだと気がついたとき、花子はそれまで一度だって感じたことのない、なにか|漠《ばく》|然《ぜん》と|掴《つか》みどころのない|靄《もや》につつまれたようなものを感じた。その靄に包まれたとき彼女の胸の中にごくわずかであったが、結婚に対する不安を持った。結婚に臨む前の処女の一般的なおそれではなかった。その靄は加藤とともに山からおりて来たものであった。花子は、結婚したらまず第一に、山とはどんなものかと文太郎に聞かねばならないと思った。 「自動車が来ましたから」  家人が花子にいった。  重々しい花嫁|衣裳《いしょう》を着た花子は|介《かい》|添《ぞえ》|役《やく》に支えられて立上った。そして、母のさわが|坐《すわ》っている奥の間へ行って、改めて坐り直して|挨《あい》|拶《さつ》した。 「長い間お世話になりました。ありがとうございました。これから花子は加藤文太郎のところに嫁に参ります。どうぞ御母様お|身体《か ら だ》に気をつけられていつまでもお元気でお暮しなさいますように」  |母娘《お や こ》別れの儀式であった。そういいなさいと、婚礼儀式にくわしい村の古老から教えられたことをそのままいったのである。なにか堅ぐるしくて、いいにくかった。母親と再会できないような遠いところへ行ってしまうような気持がしていやだった。花子の家の前に自動車が何台か待っていた。歩いたところで十分もかからないところだけれど、婚礼には自動車を使うことが、このごろこの町の習慣になっていた。近所の者が花子の花嫁衣裳を見ようとして、彼女の家の前に立っていた。彼女の衣裳について|囁《ささや》きあう声がした。きれいだきれいだと|讃《ほ》める声がした。花嫁を見に来るのも、見せるのも、讃めるのも、讃められるのも、婚礼儀式のひとつであった。花子は自動車に乗った。  加藤の家の前では嫁迎えの火が赤々と燃えていた。そこにも多数の人々が出迎えていて、口々にきれいな嫁さんだと祝辞を送った。文太郎の|従兄《い と こ》が出て来て、花子を抱きかかえるようにして敷居を越えた。これも遠く古代につながる婚礼儀式の風習であった。地方によっては、嫁を背負って入るところもあったし、若い衆が、花嫁の手を取り足を取って、よいしょよいしょと掛け声をかけながら|担《かつ》ぎ込むところもあった。  花子に取って文太郎の生家は初めてではなかったが、初めてのように明るかった。  結婚式だから電灯の数が増え、びっくりするほどの人がいた。そこでも、花子は多勢の人の眼に迎えられた。庭に面した座敷が結婚式場に当てられていた。  花子は、ただ誘導されるままに歩いていけばよかった。坐ってから、彼女のとなりに、モーニング姿で坐っている加藤文太郎がいることに気がついた。顔を見たかったが、彼の顔を見ることはできなかった。二人の距離は近くて遠かった。  |仲人《なこうど》役が堅ぐるしい挨拶をして婚礼の儀式が始まった。花子はそのおおよその筋書きを教えられていたから、別に驚きはしなかったが、予備知識のない加藤文太郎にとっては、その長たらしい儀式はひどく面倒に感じられた。夫婦の|契《ちぎ》りの|盃《さかずき》から始まって、親族のかための盃、それがまたいちいち、|悠長《ゆうちょう》にことこまかに行われていった。  加藤は|痺《しび》れをきらしていた。せまい|雪《せつ》|洞《どう》に一晩中じっとしていても、こんなに足のしびれることはなかった。両足の先の感覚がなくなっていくのは凍傷にかかっていくときと同じようだった。彼は無意識に身体を動かした。すると、母がわりに坐っている文太郎の伯母が怖い眼でにらんだ。  文太郎は我慢しなければならなかった。婚礼とはばかばかしい行事だと思った。彼は花子の方を見ようとしたが、伯母の眼が怖くて、それもできなかった。  婚礼は長々とつづいて、そのあとが|披《ひ》|露《ろう》の宴になった。  伯母が加藤のところに来て、 「さあ、着替えして出掛けるのだよ」  といった。宴席では既に歌声が聞えていた。 「どこへ行くんです」 「どこへ、ばかだねお前は、新婚旅行に湯村へ行くのじゃないか」  そして伯母は、このごろの若い者は婚礼が済むと二人だけで、新婚旅行に行かれるからいい、昔は、そうもいかず、一晩中酒を飲んで騒いでいる酔っぱらいの声を聞きながら夜を明かしたものだといった。  文太郎と花子を送りに出たのは、ごく少数の者だった。 「よろしくお願いします」  花子の母が、自動車の窓ごしに加藤にいった。加藤は黙って頭をさげた。自動車が滑り出してからも、加藤の頭から、花子の母の声と、あの頼みこむような眼つきが消えなかった。よろしく願いますというのは、娘のこといっさいをお前に任せたぞということであった。加藤は結婚というものの実感をはじめて味わった。人間ひとりを任されたことはたいへんなことであった。  加藤は花子の方を見た。花子はうつむいていた。泣いているのかなと思って覗きこむと泣いてはいなかった。  自動車は雪の道を走りつづけていた。  湯村までは三十分もかからない距離であった。その間ふたりは黙ったままでいた。  ふたりが自動車をおりると、宿の女中たちがいらっしゃいませといっせいに声を掛けて来た。ふたりは照れた。まぶしいほどの視線を浴びながら長い廊下を突当ったところに、新築したばかりの離れがあった。ふたりの部屋はそこだった。 「どうぞお召しかえになって下さい」  と女中が宿のドテラを持って来て置いていった。  部屋は二部屋続きになっていた。加藤が着がえを始めると、花子は控えの間の方へいって、着がえをした。 「お風呂にご案内いたします」  女中が迎えに来ていった。そして、立上った加藤に、 「なにか食べる物を用意して置きましょうか」  と|訊《き》いた。そういわれて加藤は空腹を感じた。婚礼にはつぎつぎと|御《ご》|馳《ち》|走《そう》が出たが、|花《はな》|婿《むこ》も花嫁もそれにはほとんど手を出してはいなかった。 「夕飯をまだ食べていないのだ」  加藤はいった。 「ではお風呂からお上りになるまでに用意しておきますからお風呂へどうぞ」  女中は加藤と花子の顔を等分に見くらべて、御一緒にどうぞとつけ加えた。花子はちょっと困った顔をしたが、その年取った女中の半ば命令的な視線に引きずりこまれたように、洗面用具を持って加藤の後に従った。  お家族風呂と風呂の入口に書いてあった。女中はごゆっくりといって立ち去った。加藤が先にその引戸を開けて中へ入った。花子は廊下に立ったまま、もし加藤が入れといえば、一緒に風呂へ入らねばならないだろうと思っていた。加藤からは声がかかって来なかった。  脱衣所から湯舟へ通ずる引戸が開く音がしてすぐ閉る音がした。廊下から脱衣場へ入る引戸は加藤が入るとき開けたままになっていた。花子はしばらくそこに立っていた。とても加藤が入っている湯舟へ裸になって入っていける自信はなかった。花子は部屋へ帰って、テーブルの上に置いてあった冷えたお茶を飲んだ。|淋《さび》しい気持だった。  間もなく料理が運ばれて来た。加藤が、風呂から上って来た。 「腹がへったぞ。花子さんもお|腹《なか》がすいたろう」  結婚してはじめて加藤が花子に掛けた言葉だった。  花子はだまってうなずいた。朝、食べただけで、その後食べものらしいものは、ろくろく口に入れてはいなかった。 「花嫁さんてたいへんなんだね」  加藤は花子に慰めの言葉を掛けてから、花子のよそった飯に一口|箸《はし》をつけてから、 「花子さんもいっしょに食べたら……」  といった。花子にはそれがいたわりの言葉に聞えた。花子は箸を手にして、これが、加藤との家庭の第一歩だなと思った。加藤はよく食べたが花子は空腹であるにもかかわらず、まだ胸の奥につかえているものがあった。加藤とそこにふたりだけでいることが恥ずかしかった。それに、食事が済んだそのあとのことが、大きな恐怖となって頭をもち上げはじめていた。本当の意味の結婚式が迫っているのに、平然として飯を食べている加藤を見ながら、男というものはこういうものかと思った。  花子はその食事の半ばを残した。 「花子さんお風呂に入って来たらどう、いい風呂だったよ」  加藤は食事が終ったとき花子にいった。花子は、なにかほっとした。そのひとことで、緊張感がほぐれたような気がした。  家族風呂は内側から|鍵《かぎ》がかかるようになっていた。花子は鍵をしっかりしめてから、着物を脱いだ。  湯は、いささか熱かった。かなり水をうめても、彼女が入るのにちょうどいい温度にはならなかった。花子は湯の温度を調整しながら、部屋で彼女を待っているだろう加藤のことを思った。旅館は静かだった。彼女ひとりだけがこの旅館の客のような気がした。あまり長湯してはいけないと思った。彼女は湯から出て、鏡に自分の姿をうつした。処女としての最後の自分を確かめるように鏡に覗き入った。  娘時代との|訣《けつ》|別《べつ》が、花子の顔をいくぶんか曇らせたようだった。花子はその顔に薄化粧してから鏡の前を去った。  食事のあとは取り片づけられていて、奥の部屋にふとんが二つ並べて敷いてあった。その一つに加藤は既に入っていた。眼を閉じていた。おそらく加藤は、花子が寝床に入るまで、見ないようにしていてくれるのだろうと思った。加藤の頭のところに、スタンドのスイッチがあった。ちょっと手を伸ばしてそのスイッチを押せば部屋は暗くなるのだ。花子は加藤に声を掛けるべきかどうかに迷っていたが、加藤が寝ているふりをしているのだから彼女の方も黙って寝床に入ればいいのだと思った。  彼女は音を立てないように寝床に入った。胸の|動《どう》|悸《き》が自分でもわかるような気がした。おそらく加藤がなにかいうか、加藤の手が伸びて来るか、それによってすべて、彼女にとって未知の世界のできごとが始まるのだ。彼女は身を固くして待った。だが、加藤は天井を向いて眼をつぶったままだった。眠ったふりをしているには長すぎる時間だった。  彼女はごくかすかな|咳《せき》|払《ばら》いをした。なにかひとりにさせられて淋しいから彼の気を引くためにそうしたのであった。反応はなかった。加藤はびくりとも動かなかった。  声をかけて見ようかと思った。そう思っただけで、前よりも激しく花子の胸の動悸がした。そんなはしたないことはしてはならないと思い|止《とど》まったが、やはり、なんともいって来ない加藤のことが気になった。結婚式は完了してはいなかった。もっとも大事なその儀式を済まさずに眠るわけはない。世界中探しても、そんな婿さんがいるはずがなかった。  花子の胸の動悸は相変らず高く鳴りつづけていた。その動悸を静めるには、やはり彼に声を掛けてみるべきだと思った。 「加藤さん……」  小さい声で花子は呼んだ。呼んでから恥ずかしさのあまり、いそいで、ふとんの中へ顔をかくした。加藤は眠っていた。 「加藤さん、お休みになったの」  花子は前よりも大きな声で彼を呼んだ。返事がないので起き上って覗きこむと、加藤は軽い寝息を立てて眠っていた。健康な顔だった。いかにも幸福そうなつやつやと若さに輝く顔だった。      2  加藤文太郎は結婚によって人が変ったように見えた。それまでは退社時刻が来ようが来まいが、おかまいなしで仕事をしていた彼が、退社時刻がせまって来ると時計ばかり見ていて落ちつかなかった。そして退社時刻になると、真先に帰っていった。 「奥さんが待っているから無理ないね」  と同僚にひやかされると頭を|掻《か》いた。 「きれいな奥さんだそうじゃあないか」  といわれると赤い顔をした。 「加藤さん、奥さんを家の中へかくしておかずに|僕《ぼく》|等《ら》にも紹介して下さいよ」  後輩にいわれると、 「困った、困った」  と本気になって頭をかかえこんだ。そういう加藤はいままでの加藤ではなかった。いままでの加藤からはとうてい想像されない加藤だった。後輩の三人が相談して、加藤の家へ行くことにした。はじめっから加藤を困らせるつもりでいた。 「加藤さん、これからぼくら三人でお宅へうかがっていいでしょうね」  まったくの突然だった。 「来て悪いってことはないが……」 「それでは御一緒にお宅までお|伴《とも》させていただきます」  ばかていねいなことばをつかって三人は声を上げて笑った。加藤は別にいやな顔をしなかった。加藤には花子が自慢だった。加藤は、妻の花子をなるべく多くの人に見せたかった。美しい妻をつれて、会社の中をぐるぐる歩き|廻《まわ》りたいほどだった。同僚たちが来てくれることは|嬉《うれ》しかった。 「じゃあ、ひとあし先にぼくが帰って……」  加藤は途中からタクシーで帰ろうとしたが、三人は、そうはさせずに、自動車の中に一緒に乗り込んだ。三人の独身者たちは加藤が、彼の新妻にどんな態度をするかを、初めっから見たかったのである。 「花子さん、いま帰ったよ」  加藤はそういって新居の敷居をまたいだ。三人の後輩は顔を見合せた。三人の客を迎えて加藤はどうしたらいいかわからないようだった。むしろ花子の方が落ちついていた。加藤は長田神社の前の菓子屋から|力餅《ちからもち》をたくさん買って来たり、そば屋へ|天《てん》|丼《どん》を注文に走ったりした。  三人はその夜のことを会社の同僚たちに|披《ひ》|露《ろう》した。加藤が、花子さんいま帰ったよといったということが、会社内で評判になった。それまでの加藤を知っている者にとっては、とても、想像もつかないことであった。  加藤は同僚たちに彼の新婚生活をからかわれることを決していやがってはいなかった。からかいに|馴《な》れて来ると、からかいに笑顔で応ずるようにさえなった。いままで、いつも怒ったような顔で仕事ばっかりしていた彼が、同僚と|無《む》|駄《だ》|口《ぐち》をきくようになった。以前は廊下で人と会ってもめったなことで言葉を交わすことはなかったが、結婚してからは他人に寒い暑いの時候の|挨《あい》|拶《さつ》をするようになった。おはようをいうようになった。 「たいへんな変りようだな」  同僚たちは、加藤の変り方は結婚によるものであり、彼の新妻の花子の感化によるものだと思っていた。 「花子さんという奥さんはよほど偉いのだな」  彼等はそういって花子を|讃《ほ》めた。  花子は偉いとか偉くないとかいわれる年ごろではなかった。満でいえば|二十《は た ち》、数え年で二十一歳になったばかりであった。まだまだ少女のおもかげが残っていた。一家をまかされてどうやっていっていいやら、まず加藤に聞く年ごろであった。  加藤は結婚によって人生の楽しさというものをはじめて知った。それまで加藤にとって女性は異国人のように遠い存在でしかなかった。女性がいなくとも、そこに彼だけの人生があるのだと考えていた。だが花子と結婚してからの加藤は、花子なくしての人生は考えられなかった。なぜ突然そのような革命が彼の中に起ったのか彼自身にもよくわからなかったが、一日一日と彼の中に存在を高めていく花子のために、彼は献身を惜しまなかった。  花子は素直で利口で、そしてやさしい女であった。だが、彼女はあまりにも若くして両親兄妹のもとを離れていた。彼女はときどき放心したような眼を故郷の空へ投げることがあった。  加藤は花子のその眼つきだけが心配だった。ひょっとしたら、彼女が、黙って、この家からどこかに飛び立っていってしまいはしないかという|杞《き》|憂《ゆう》があった。 「花子さん、どうしてそんな淋しそうな眼をするの」  だが花子は故郷が恋しいのだとは決していわなかった。いってはならないものだと思っていた。  加藤は、外山三郎のところへ相談にいった。外山三郎の妻の松枝は、 「あまり家の中ばっかりに閉じこめて置いてはいけませんよ。そうそうたまには二人だけで、どっか遠くへ出かけるといいわ。例えばスキーかなんかに」  加藤はその言葉に従って、花子を連れてスキーにでかけることにした。 「山をやめるかわり、奥さん孝行というわけか、どっちみち君が会社を休みたがることにおいては変りがない」  課長の影村は皮肉をいいながら休暇願にハンコを押した。  二月の末、ふたりは赤倉にスキーにでかけていった。  花子は生れてはじめてスキーを履いた。履き方も滑り方も知らない彼女に、加藤はいちいち手を取って教えてやった。当時、女性でスキーをやるのはよほどのお|転《てん》|婆《ば》とされていた。彼女は雪を知ってはいたがスキーの経験はなかった。彼女は雪まみれになった。二日目の夕刻、宿へ帰るとき、花子は加藤の前をあぶなっかしい格好で滑っていた。彼女にも滑れそうな傾斜だから加藤も気を許したのである。雪の道の両側に旅館が並んでいた。道の方が雪で高くなっていた。花子は自然の勢いで道の方から一軒の旅館の方へ滑りおりていった。その旅館の前には番頭と女中が客でも迎えるのか、顔をそろえて立っていた。花子はその前へ滑っていって|尻《しり》もちをついた。 「いらっしゃいませ」  番頭が冗談をいったので女中たちがいっせいに笑った。後から滑って来た加藤が花子を助け起した。体裁の悪い顔をしていた。  赤倉の三日間のスキーは花子にも加藤にも忘れることのできない思い出となった。  加藤はこの三日間、ずっと花子のそばにいた。それまでの加藤なら、雪と山を見ながら同じところで三日間もすごすということは考えられないことであった。おそらく眼に触れる雪山のいただきに向って、|我《が》|武《む》|者《しゃ》|羅《ら》に登っていったに違いない。だが加藤にはそうしたいという欲望は起らなかった。山へ来ると、ひっきりなしに地図を開き、磁石を|眺《なが》める彼が、地図さえろくろく見なかった。たまたま花子から地形について説明を求められたときだけしか地図は見なかった。  山に入ったら、すぐその山の地形を頭の中に入れようとする、加藤文太郎の登山家としての本能までにぶってしまったようにさえ見えた。  加藤には花子以外はなにものも見えなかった。それまでの加藤には、仕事と山以外なにものも見えなかったとおり、今の加藤には仕事以外で見えるものは花子だけだった。花子が加藤の中にある山と入れ替ったのであった。  三十歳まで童貞を通した加藤にとって、花子との結婚生活の一日一日が未知の世界の開拓であった。下宿住いをしていたころ、彼は一週間に一度は下宿の庭で野営をした。裏山に登って野宿したこともあった。そのとき彼は、|肌《はだ》を刺して来る明け方の寒さをこらえながら、生きる喜びを感じていた。花子と結婚して加藤は、独身時代のその喜びはいつわりのものであることをはっきり知った。今はそこにあたたかい花子の白い肌があった。その肌から伝わって来る体温こそほんとうの喜びであった。もはや野宿は遠い過去のものであった。  加藤文太郎はそれまで毎朝毎晩、石の入ったルックザックを背負って、下宿と|和田岬《わだみさき》との間を往復した。だが彼は結婚すると同時にそれをやめた。 「なぜ石を背負って会社へ行くの」  花子と結婚して、はじめて出勤する日の朝、花子にそういわれたとき、加藤はそれに答えられなかった。簡単に答えられる問題ではなかった。下手に答えて花子に心配をかけてはならないといういたわりの心もあった。加藤は石の入ったルックザックはそのままそこに置いて会社へ出かけていった。その日、十年間に渡ってつづけられた加藤の習慣の一つは、終止した。淋しいとも悲しいとも思わなかった。そのことに抵抗する気はなにひとつ起らなかった。加藤は歩きながら、身が軽すぎるなと思っただけであった。結婚するまでは、毎日ナッパ服を着て会社と下宿の間を往復した。その習慣も花子と結婚したと同時に終りを告げた。花子にいわれたのではなく、加藤がそうしたのである。毎朝花子は、加藤を送って家の外へ出た。その花子に恥ずかしい思いをさせたくないという思いやりであった。  それまでの加藤は|頑《がん》|固《こ》に過ぎた。孤独に過ぎた。他人に対する思いやりよりも、自己を築くことに重きを置いていた。自我が強すぎて狭量だと他人にいわれた。だが加藤は花子との結婚によって、他人に対する眼が大きく開かれた。他人との交際についてもいままでと違っていた。ただひとつ、独身時代からの習慣で変らぬものがあった。それは、歩くことであった。結婚しても自宅と会社間往復六キロの道は歩いて通った。乗物を利用した方がはやく家へ帰れるけれど、彼はこの習慣だけは|止《や》めなかった。花子も別にそのことをへんだとは思っていなかった。  加藤と花子との共通の話題は故郷の浜坂のことであった。浜坂の話になると妙に熱が入った。浜坂の話に飽きると、神戸の話になった。加藤にとっては浜坂より神戸の生活の方が長かった。加藤は神戸を語り、会社のことを話した。だが加藤は、彼の半生を支配する山のことは不思議に花子に話さなかった。花子が聞けば断片的には話したが、山の話をすることを加藤はあまり好まないように見えた。 「加藤君、結婚したら|俸給袋《ほうきゅうぶくろ》をそっくり奥さんに渡すんだな。それが家庭平和の基礎となるもっとも大事なことなのだ」  結婚する前に外山三郎にいわれた。加藤はそのつもりでいた。だが加藤は、結婚して、はじめての俸給をもらったとき、月給の中から二十円をさいて社内貯金に廻した。ひとまずそうして置いて、あとのことは花子と相談して決めようと思った。 「社内貯金として二十円引いてあるよ」  加藤はそういって俸給袋を花子に渡した。花子が社内貯金ってなにかと聞いたら、それがヒマラヤ貯金であることを話そうと思った。だが、花子はそれだけの説明で充分だった。社内貯金というのは、社員が、自主的に、あるいはなかば強制的に俸給から天引き貯金することであろうと思った。いずれいつかは、自分たちのために|戻《もど》って来るのだから、かえって、そうして置いてもらった方がいいと思った。  花子は八十円の俸給を大事そうに受取って、ありがとうございますと加藤にお礼をいった。家賃は八円五十銭であった。二人の食費は、一カ月三十円もあればやっていける自信があった。その他必要なものを買ったとしても、八十円あれば充分だった。  社内貯金について花子から質問を受けなかったことは、ヒマラヤ貯金のことが秘密として残ったことであった。ヒマラヤ貯金は、加藤の心の中の秘密であった。彼が貯金をしていて、その額がかなりの額に達しているらしいことを知っている者はいたが、その貯金の目的がヒマラヤ遠征にあることは、外山三郎さえ知らないことであった。  加藤はヒマラヤ貯金について、たったひとつの秘密を花子との間に持った。いおうかと何度か思ったが、それをいったら花子は心配するだろうと思った。余計なことはいわずにもう少したってから話そうと思っていた。加藤はヒマラヤ以上に花子を愛していたが、ヒマラヤが加藤から消えて|失《な》くなったのではなかった。長い間考えつづけていたことがそう簡単に消えるものではなかった。  加藤が花子にヒマラヤ貯金の秘密を持ったことは、同時に、加藤の心の中にある山に対して花子に秘密を持とうとしていることであったが、加藤はそれに気がついていなかった。加藤が、山のことを花子に積極的に話さないわけは、花子に余計なことを心配させまいという思いやりだけではなかった。やはり加藤のどこかで、山に執着するものがあった。彼はその山を花子と比較することがおそろしかったのである。 「山と私とどっちが好き?」  などと、花子はけっしていう女ではなかったが、加藤はいつか花子にそういわれはしないかと心配していた。山は依然として加藤の中に潜在していた。だが、表面的には、そのころ加藤には山はなかった。花子のことだけで彼はいっぱいだった。  花子は|身体《か ら だ》に異常を感じた。妊娠ではないかと思ったが、恥ずかしくて|誰《だれ》にもいえなかった。三月になってから、それはもう疑う余地のないことに思われた。花子は加藤に告げた。加藤はひどく喜んで、医師の診断を受けるように花子にすすめた。花子が|躊躇《ちゅうちょ》していると、それまで一度も見せたことのないようなきびしい眼つきをして、診てもらわねばならないのだといった。半ば命令的であった。  花子は医師の診断を受けた。妊娠三カ月であった。結婚してすぐ身ごもった勘定になった。花子はそのことを、ひどく恥ずかしがった。時折たずねて来る外山三郎の妻松枝にもいわなかった。故郷の母にも知らせなかった。加藤にも、会社の人に話してくれるなといったほどであった。  加藤は|嬉《うれ》しかった。子供が生れるということは、前途に思いもよらなかったほどひろびろとした新しい天地が開かれるようであった。花子が妊娠したことによって、加藤はいままでより更に陽気になった。社員の送別会に出て山の歌を歌ってみんなを驚かせた。  四月になってから加藤は花子に浜坂へ帰って来るようにいった。彼女の母に出産までに注意すべきことや帯祝いのことを|訊《き》いて来るようにいったのである。花子にとって帰郷は嬉しいことであった。彼女は加藤の好意にせき立てられるようにして神戸を|発《た》った。  花子は浜坂に四日間いた。ずっと母のそばにいたが、妊娠のことはひとこともいわなかった。恥ずかしくていえなかったのである。さわもまたそのことについて訊こうとはしなかった。夫婦仲がいいことは花子の話のはしはしに出ていた。花子が帰郷したのは、花子がいう浜坂が恋しいだろうから行ってお|出《い》でという加藤の好意に甘えたのだと思いこんでいた。ついに花子は妊娠のことは母にも、|勿《もち》|論《ろん》加藤の実家にもいえずに神戸に帰った。 「お母さんはなんていった」  加藤にいわれると花子はどう答えていいかわからなかった。花子は先生に|叱《しか》られた生徒のように赤い顔をしてうつむいていった。 「恥ずかしくて、よう話せませんでした」  加藤は笑った。実母にもそのことがいえなかった妻のいじらしさがたまらなく愛らしかった。母にはいえなくとも、夫である自分にはそのことがいえたのだと思うと、彼女の母よりも加藤の存在の方が大きくなっていることをはっきり見せつけられたような気がした。加藤はいかなることがあっても、この花子を不幸にしてはならないと思った。  長田神社は毎月の一日に|参《さん》|詣《けい》すると|御《ご》|利《り》|益《やく》があるとされていた。  昭和十年五月一日、その日は朝から寒い日であった。  午後になって季節はずれの雪が降って、地面が真白になった。その雪の中を走るようにして、外山三郎の妻の松枝が加藤の家へ来た。松枝は毎月の一日は必ず長田神社に参詣することにしていた。 「めずらしいことね。いまごろ雪が降るなんて」  松枝は着物についた雪を払いながらいった。  花子は松枝を迎え入れると、そのもてなしに迷った。 「いいのよ花子さん気を使わないでも」  そういわれても花子は客をもてなさないわけにはいかなかった。松枝は花子の立居振舞を見ていて、花子が|坐《すわ》ってからいった。 「花子さん、おめでたでしょう」  花子は顔をかくした。穴があったら入りたいように身体を小さくした。 「それで予定はいつなの」  松枝は事務的にも思われるほど、いろいろと聞いた。近くで評判のいい|産《さん》|婆《ば》さんを紹介しようといった。妊娠や育児についての本も届けてくれることを約束した。  花子もそれまで、婦人雑誌の「妊娠と育児」という付録を読んではいたが、しっかりした本があれば、それにこしたことはなかった。 「よかった、よかった」  と松枝は自分のことのようにいった。松枝の口から外山三郎、外山三郎から、会社にこのことが知れた。加藤はまた同僚たちにからかわれる材料をひとつ作った。 「なかなか効率がいいじゃないか」  技術屋らしいからかい方をする者もいたし、 「夫婦の味なんていうものは子供ができてからでないとわからない」  などというものもあった。  加藤は男をほしいといった。なんでもかでも最初は男でなければならないようなことをいった。  暑い夏が来た。花子のお|腹《なか》が|眼《め》|立《だ》つようになった。なにか仕事をするのが苦しそうに見えた。加藤は手伝おうといったが、花子はさせなかった。加藤の台所では、ガスと|薪《まき》と両方を使っていた。飯はガスでたくより薪でたいたほうがうまいというので、こうする家が多かった。|風《ふ》|呂《ろ》は薪を使った。家のことで加藤が手伝うとすれば、その薪割りぐらいのものであった。もっとも、その薪もかなりこまかく割ってあったから、たきつけに使う薪を少々こしらえるぐらいのことが、加藤にでき得る花子への最大の奉仕であった。  花子はつわりに苦しむということがなかったが、時折、とんでもないものを食べたいということがあった。夏の盛りに|柚《ゆ》|子《ず》を食べたいといったり、浜坂のかにせんべいを食べたいなどと突然いい出すこともあった。  赤飯を食べたいから|小豆《あ ず き》を買って来てくれと、花子が珍しく加藤に用をたのんだのは八月の終りの日曜日だった。  加藤は小豆を買いに外へ出た。そこで彼は久しぶりで宮村|健《たけし》に会ったのである。  宮村健はポケットに手を突込んでうつ向き加減になって歩いていた。 「おお、宮村君」  加藤が声を掛けると宮村は夢から覚めたような顔をした。 「その後どうしたのだね」 「あいかわらずやっていますよ。あれからずっとひとりで歩いています」  宮村のひとりで歩いているということばが加藤には気になることであった。 「近くだから寄っていかないか」  加藤は宮村健を誘った。宮村ははじめのうちは躊躇していたが、加藤が、すすめると、それではといって加藤のあとに従って来た。  加藤の新居の応接間は四畳半の広さだった。加藤の同僚が結婚祝いにくれた油絵が壁に一枚かかっているだけの質素な応接間だったが、テーブルの上に、花子が|活《い》けこんだダリヤの大輪が|薫《かお》っていた。隣家の家主からもらったものであった。 「ずっと歩いているのか」 「はい」 「会社の方は」 「やめました」  その短い会話で加藤は、宮村健の変り方を見て取った。山に凝ったがために、おそらく会社はやめさせられたのだろうと思った。 「その後、どんな山を歩いているのだね」 「はあ、——」  宮村はいいたくないようだったが、|真《まっ》|直《すぐ》に向けられた加藤の眼からはとても逃れられないとあきらめたように、 「加藤さんの歩いたあとをずっと歩きつづけています」  といった。 「ぼくの歩いたあと? なぜそんなことをするのかね」 「なぜだかぼくにもわからないんですが、ただそうやっているのです。ただ加藤さんは何年もかけてそれをやっていますから、すぐ追いつくわけにはいきません。特に冬加藤さんが歩いたコースをそのとおり全部やるのはむずかしいから、それはまだやってはいません。加藤さんが夏歩いたところはほとんど全部歩きました」  宮村は加藤になにか済まなそうな顔でいった。 「山へ行くのはいいとして、会社はなぜやめたんだね」 「休んでばかりいて会社に悪いからなんです。それに、こんなことをしていると万一ということもあろうかと思いましてね。そういうときに会社に迷惑をかけたくなかったんです」  宮村健が万一といっているのは死を意味しているように思われた。 「宮村君、そんな登山ってないぞ。それでは登山ではなく自殺山行じゃあないか」 「わかっています。よくわかっていますが、忘れるためにはそれしか方法はなかったのです」  さすがに園子という名を口には出さなかったが、宮村が園子を忘れようとしていまだに苦しんでいるのを見ると、気の毒という感情を越えて、加藤自身みじめな気持になった。園子を宮村に紹介したのは加藤であった。 「でも加藤さん、峠はどうやら越えたらしいんです。このごろになって、明るさが見えて来るようになって来ました。あのひとのことは絶対に忘れることはできないけれど、ほかにも人生があるってことがわかって来たのです。加藤さんの歩いた道を歩いていて、そのことがはっきりとわかるのです。もう少しだと思います。もう少し|経《た》てばぼくは立直ることができます。そうしたら、いまのような山歩きはやめて、会社勤めをやるか、店の方をやるかどっちかにします」 「もう少し経てばというのは時間的な問題かね」 「そうです、時間的な問題ともうひとつ、私のいままでの生活に区切りをつけるような、ぴりっとした山行をひとつやりたいと思っています」  花子がつめたい飲みものを持って来て、黙って宮村に頭を下げると部屋を出ていった。 「きれいな奥さんですね。加藤さんが結婚したということは聞きました。結婚して山をやめたということも、なにかで読みました。やはり、ああいうきれいな奥さんと結婚すると山なんかどうでもよくなるのでしょうね。これは皮肉ではなく、ぼくはそれでいいんだとほんとうに思うんです」 「結婚をしたからぼくが山をやめたと、誰がそんなことを書いたのだ」  加藤はやや気色ばんだ口調で問い|訊《ただ》した。 「山の雑誌のゴシップ欄です。取るにたらないことですが、案外ああいうところは人が読むんです。だから」 「だから君も読んだし、そう思ったというのかね」 「そうです。そしてまたそれでいいんじゃあないかと思ったんです」  宮村はコップのカルピスを一気に飲み|乾《ほ》すと立上ろうとした。 「それでいいというわけは」  加藤は立ち掛けた宮村を押えつけるようにしていった。 「つまり、なんでもいいから一生懸命になれるものがあればいいってことではないでしょうか。自分の全身全霊をぶっつけていけるものがあれば、なにも山へなんか登らないでもいいってことでしょう」 「ちょっとちがうな。いやだいぶ違うな。君の山に対する解釈には偏見がありすぎる。山は、なにかの対象との比較の上に出されるものでは決してないんだ。山は山なんだ。山以外のなにものとも関連はないのだ。おれが結婚したから山をやめるとか、山へ行く必要がなくなったなどという考え方は邪道だ」  しかし宮村は加藤の顔を、なかば冷笑に似た顔で見つめていた。 「だって、加藤さん、山へは行かないでしょう。一月に結婚してから、一度だって山へはいかないでしょう。だから、ぼくがいったことに対して、反論する資格はないんです。あなたはもう山から去った人なんです——」  宮村はもういかにとめてもそこにいる気配はなかった。 「今年だけではない。去年も一昨年も夏の間には一度だって山へは行かなかったぞ。おれは夏の山には魅力を感じないのだ」  だが宮村はだまって|靴《くつ》をはいた。加藤は宮村のあとを追うように|下《げ》|駄《た》を履いた。 「おい宮村君、勝手に他人のことをこうだああだときめつけるのはよくないぞ。おれは、山をやめたなどと、どこにも発表したことはない。たしかにここのところ山へは行っていないが、そのときが来ればまたピッケルを握り、アイゼンを履くさ」  加藤はうしろ手で|硝子《ガ ラ ス》|格《ごう》|子《し》|戸《ど》をしめると外へ出ていった。花子のほうはふりむきもしなかったし、ちょっと出て来るともいわなかった。  花子はそこまで送りに来たが、外へ出てはいかなかった。加藤と宮村の話は断片的にしか聞かなかったけれど、花子は、加藤が|未《いま》だに山に執着を持っていることをはっきり知った。加藤が山男であることを承知で結婚したのだから、加藤が、山をあきらめていないといったところで、彼女は別に驚くことはなかった。彼女が、加藤のうしろ姿になにかしら不安なものを感じたのは、そのことではなかった。彼女は宮村健そのものに不安を抱いた。彼女とそういくつも年が違わないその青年の、死を見つめたような眼つきが、彼女には不安だった。なぜ宮村があんな眼つきをしているのだろうか。なぜその宮村と加藤があんなに親しく口をきくのであろうか。 (宮村さんは悪い人ではないわ。山へ行く人に悪い人はいない。でも宮村さんと加藤は、交際してはならないのだわ。宮村さんは——)  花子は宮村のことを思うと背筋に寒気を感じた。  しばらく経って加藤が汗を|拭《ふ》きながら帰って来た。加藤はあがり|框《がまち》に腰かけて、じっと考えこんでいる花子の顔を見て驚いたようだった。花子がそんな暗い顔をしたのを見たのははじめてであった。 「どこか悪いの?」  加藤は花子を助け起そうとした。 「少し休んだらどうなんだね。働き過ぎたのではないのかね。お腹でもいたいの……」  花子は首をふった。首をふりながら、彼女の頭の中に持ち上りつつある不安がなんであるかを加藤に説明しようとした。だがその時にはもう、加藤はそこにはいなかった。奥の間で加藤が|布《ふ》|団《とん》を敷いている音がした。 「産婆さんを呼んで診てもらったほうがいいかな」  ひとりごとをいっている声がした。      3  花子が産気づいたのは昭和十年十一月十三日の夕刻であった。  浜坂から出産の手伝いに来ていた花子の母のさわに、 「文太郎さん、お産婆さんを呼んで来て下さい」  といわれたとき、加藤文太郎は、そこに新しい生命が誕生しようとしていることを知った。 「生れるんですか」  加藤は、大変な事件の予告でも聞いたような顔をした。 「まだまだですよ。|初《うい》|産《ざん》ですしね」  さわは加藤を落着かせるためにそういったが、加藤のあまりに真剣な顔に、 「大丈夫よ心配しなくとも」  とつけ加えねばならなかった。  だが、加藤は心配せずにはおられなかった。彼は産婆のところに、まるで、短距離レースのようなすさまじい勢いで|駈《か》けつけると、|呼《よび》|鈴《りん》をつづけさまに何度も押した。  花子の陣痛は十分置きぐらいの間隔でやって来た。産婆は、加藤が、いますぐにでも生れそうな剣幕で駈けつけたから、直ぐ来たものの、とてもまだ生れそうもないと見ると、一応出産の準備をたしかめてから帰宅した。  花子の陣痛がややせわしくなったのは、八時を過ぎたころからであった。 「そろそろ、お産婆さんが来てくれてもいいころだねえ」  さわのひとりごとを聞いた文太郎は、また産婆を迎えに走った。  産婆は苦笑しながら、迎えに来た文太郎とつれ立って家を出た。 「よく晴れた夜だこと、こういう夜には、きっと安産ですよ」  それを聞きながら、加藤は祈るような気持で夜空を仰いだ。  花子の陣痛は五分置きぐらいにやって来た。産婆の説明によるとその間隔が四分、三分、二分と短縮されていって、やがて連続的な陣痛状態になってから生れるのである。 「この様子だと夜中の一時|頃《ごろ》には生れるでしょう」  産婆はそういった。 「文太郎さん、赤ちゃんが生れたら起すから、あなたは休んでいて下さい。お産には男の人はなんの役にもたちませんから」  さわにそういわれても文太郎は、とても寝る気にはなれなかったから、応接間に入って本を読んでいた。読むつもりでページを開いても、本の内容はひとつも彼の頭には入って来なかった。応接間からは花子の寝室のことはなにひとつとしてわからなかった。ときどき、さわの声や産婆の|疳《かん》|高《だか》い声が聞えるだけであったが、 「そのくらいのことでなんです」  とか、 「お産というものは|誰《だれ》でもそうなんです」  とかいう声を断片的に耳にすると、加藤は花子の苦痛がそのまま彼に伝わって来るような気がした。  十二時を過ぎたころ、さわは、台所に出て来て湯を沸かし始めた。加藤はもうじっとしてはいられなかった。 「ぼくが湯を沸かします。そのくらいのことはやらせて下さい」  加藤はそういって、さわから強引に湯を沸かす仕事を奪い取ると、それでいくらか、花子の出産に対して、貢献できるような気持になった。  一時を過ぎ、二時を過ぎ、お湯は何度か沸かし替えたが生れる様子はなかった。 「初産というものは長びくのが当り前ですよ」  さわは台所と応接間の間をいったりきたりしている加藤にそうはいったものの、さわ自身の顔にも不安な色が流れていた。  五時になった。さわと産婆が、廊下でひそひそと立話をしているのを加藤は見た。花子が難産に苦しんでいるのだなと思った。医者ということばを加藤はちらっと耳にした。 「医者を迎えに行って来ましょうか」  まだ暗い外を見ながら加藤はいった。 「そうですね。夜が明けたら」  産婆の顔も心配そうだった。  六時になって、夜が白々と明けだすころ加藤は、医師を迎えに走った。走りながら加藤は、花子、|頑《がん》|張《ば》ってくれ、頑張ってくれと、口の中でいいつづけていた。できるならば、花子の苦痛の幾部分かを、分担してやりたい気持だった。  医師の家の戸はなかなか開かなかった。不快な表情を丸出しにして、女中が、 「先生はまだ眠っていますよ」  といった。 「大変なんです。花子は死ぬかもしれません」 「花子さんって?」 「妻です。お産で苦しんでいるんです。すぐ先生に来ていただかないと、母子ともあぶないって|産《さん》|婆《ば》さんがいっています」  産婆はそうはいわなかったが、加藤の頭の中では、そのように感じていた。  女中は、加藤の|切《せっ》|羽《ぱ》つまったような顔つきからどうやら、花子の状態を|掴《つか》んだようであった。しばらくたって引返して来ると、 「先生は、これからすぐ用意してお出掛けになります」  といった。  加藤は玄関に腰かけて待った。そうしていれば医師は少しでもはやく来てくれるだろうと思った。  やがて、金縁眼鏡を光らせた医師が、玄関に姿を現わすと、加藤は救世主を仰ぐように何回となく頭をさげてから、その黒い|鞄《かばん》を持って先に立った。  医師を自宅まで案内すると、また彼の仕事はなくなった。加藤は、すぐ近くの長田神社の神主の家の門を|叩《たた》いた。 「安産のお札を下さい」  神主はねぼけまなこで加藤の顔を見ていたが、だまって奥に引っこむと、|神《かみ》|棚《だな》に祭るような大きなお札を一枚持って来ると、 「これを|枕元《まくらもと》に……」  といった。神官は、加藤が安産のお札といっただけで、加藤の妻がお産に苦しんでいることを察知したようであった。  加藤は、そのお札を|懐《ふとこ》ろに抱いて帰ると、さわにいった。「これを花子の枕元に置いてやって下さい」  さわは、加藤と長田神社のお札を|見《み》|較《くら》べたが、それを持ってなにもいわずに奥へ入っていって花子の枕元に置いた。  医師が来てからも、まだすぐ出産する様子は見えなかった。 「しっかりしなさい」  と、さわが呼ぶ声が応接間に聞えて来ると、加藤は、その声に打たれたように、そこに|跪《ひざまず》いて、手を合わせて、祈っていた。  奥の方がひとしきり騒がしくなり、やがて静かになった。  加藤はひょっとしたら、花子とその胎児が……と悪い方の想像をした。加藤の背筋を、つめたいものが走り、額に冷汗が流れた。  突然、妙な声がした。  低いが、力強い、リズミカルな声であった。それが新しい生命が上げた|呱《こ》|々《こ》の声だと知ったとき、加藤は、全身から力が抜けた。|眼頭《めがしら》が熱くなった。彼の子がこの世に生れ、彼は父となったのである。彼は、呱々の声に向って、近づこうとした。 「文太郎さん、立派な女の子が——」  加藤に、それを知らせに来たさわは涙ぐんでいた。一夜の苦闘に疲れ果てた顔をしていた。 「花子は、花子は大丈夫ですか」  加藤はさわに浴びせかけるようにきいた。  花子は、その加藤の声をはっきり聞いた。加藤が自分のことを心配していてくれているのだなと思ったとき、花子は、彼女が果した、妻としての最大の任務に満足した。疲労が花子の全身をおおった。  花子はなにも知らずにひたすら眠っていた。どのくらいの時間眠ったかも分らなかったが、眼を覚ますと、電灯がついていた。  花子は、あたりを|見《み》|廻《まわ》した。  彼女の布団と平行に、小さな布団が敷いてあり、そこに赤い顔をしたわが子が眠っていた。  加藤の人生は、彼が人の親となったその日からまた変った。彼は一晩中眠ってはいなかったが、花子の出産が済むと、一時間おくれて会社へ出勤した。彼は父となったことを同僚に発表したかった。 「残念だが、女だったよ」  などと、|嬉《うれ》しさを、照れかくしの微笑でごまかしていた。 「残念なことなんかあるものか、一姫二太郎といって、はじめては女の子の方がいいのだ」  と同僚にいわれると、加藤は|相《そう》|好《ごう》をくずして笑った。 「結婚して半人前、人の親になって、やっと一人前になったのだ。きょうはみんなにおごるんだな」  などとからかわれると、それを本気にして、食べきれないほどの茶菓子を買って来てみんなの前に出した。仕事は手につかなかった。立ったり|坐《すわ》ったりしていた。隣室の外山三郎のところへは、一時間置きぐらいに顔を出していた。  影村課長はその加藤に時折なにかいいたげな鋭い視線を投げたが、結局なにもいわなかった。  その日加藤は、タクシーで家へ帰った。  赤い顔をして眠っている子は、まだどちらに似ているかよくわからなかった。加藤は、おそるおそるわが子の顔をのぞきこみながら、その子を通して深いところから|湧《わ》き出て来る父という自覚にひたっていた。それは、花子に対する愛情とは違った新鮮な、なにか、むずがゆいような感懐であった。  新しい生命はよく泣いてよく乳を吸った。 「沢子って名前はどうかな」  三日目の夜、三人が名前をつける相談をしたとき加藤がいった。加藤は男なら岩男、女なら沢子という名前を用意していた。花子の母のさわから取ったのではなく加藤が好きな山から取った名前であった。男ならば岩のように強い男に、そして女の子なら、沢のようにうるおいのある女にしたいという意志からであった。もともと山は岩と沢によって形作られていると考えてもよかった。岩尾根と沢との、いわば、陽と陰の二つの地形が山を形成していた。だから、加藤は男なら岩男、女なら沢子とつけようと考えていたのであった。 「沢子ですって、とんでもない。そんないやな名前はつけないで下さい」  花子の母のさわがいった。 「なぜ、沢子がいやな名前なんですか」  加藤は意外だという顔で、さわの顔を見た。 「私の名前が、さわ、沢子の沢でしょう。私は|亭《てい》|主《しゅ》に早死された上、長男にも早死されました。名前が悪いからだとは思っていませんが、やはりいざ名前をつけるときはそういうことが気になります」  加藤は沢子に飽くまで|拘《こう》|泥《でい》しようとはせず、さわのいい分を納得すると、それでは花子の選んだ名前のどれかに決めようと、花子が書いた直子、邦子、登志子の三つの名前のうち登志子を指して、 「加藤登志子、……登志子さん、登志ちゃん、お登志……いい名前じゃあないか」  それで名前は決った。  登志子は|貪《どん》|婪《らん》なほど乳を吸った。花子の乳はよく出たが、それでも、足りないほどよく吸った。産婆さんに教えられた、乳の出のよくなる食物は、それがどんなに遠いところであっても、加藤は買いにいった。  |鯉《こい》こくを食べると乳がよく出ると教えられると、加藤は鯉を買いにいった。さわと花子と加藤と三人で食卓をかこんで、食事をしているとき、加藤の|味《み》|噌《そ》|汁《しる》の|椀《わん》の中に鯉の身の大きなのがあると、|箸《はし》でつまんで花子の椀にだまって移した。乳が出るようにという思いやりであった。出勤するときは必ずなにか食べたいものがないかと聞いた。  加藤のその日その日は光明に輝いた。会社に出ても仕事に張りが出た。廊下で人と会っても加藤の方から|挨《あい》|拶《さつ》することが|稀《まれ》ではなかった。  研修生時代の北村安春と廊下で会ったときも、加藤の方からしばらくだったなと声を掛けた。 「このごろの加藤、少しおかしいんじゃあないのかな」  北村安春は、研修生時代の同期生の村野孝吉にそのことを話した。 「ああ、加藤か、加藤は結婚してからすっかり変った。それにこんどは子供ができたのだ」 「だが、しかし——」  北村はそれでも納得できなかった。無口で、人とのつき合いの悪い加藤が、結婚して子供ができただけで、それほど変るものかと思った。 「それで山の方はどうなんだ」  それに対して村野は首をひねった。 「よく知らないが以前ほど行かなくなったらしいよ」 「たいしたことだな、しかし、加藤にとってその変り方はよいことであろうか、悪いことであろうか」  北村のその質問には村野はなんと答えていいかわからなかった。人づき合いがよくなったということはいいことではあるが、加藤の|変《へん》|貌《ぼう》が、あの|傲《ごう》|慢《まん》にも見えるほどの技術における自信と仕事への献身を|減《げん》|殺《さい》するものだったら困ると思った。 「いいことにきまっているさ、加藤が、誰とでも自由に口を|利《き》き、笑顔を見せ、酒を飲み、冗談がいえるようになれば、彼の将来は|益《ます》|々《ます》輝かしいものになるだろうさ」  村野のそのいい分は、友人としての希望であった。 「そうだ、今年の暮には久しぶりで同期会をやろうじゃないか。おそくなると、いいところがなくなるから、十二月になったらすぐやろうじゃあないか。加藤の|奴《やつ》もきっとでて来るだろう」  十二月に入って間もなく、十四年会が海の見える|館《やかた》の近くの中華料理店の二階で催された。十四年会というのは、|彼《かれ》|等《ら》が大正十四年に研修所を出たからであった。幹事は村野孝吉であった。 「昭和十年という年は、いろいろ事件の多い年であった。二月に|美《み》|濃《の》|部《べ》|達《たつ》|吉《きち》の天皇機関説問題が起り、三月、四月に三原山が飛び込み自殺で新記録を作り、八月には軍務局長の永田鉄山が相沢中佐に刺された。どうも、昭和十年という年はあまりいい年ではなかった。なにかこうモヤモヤと不安な気持がわれわれの頭上をおおっていた。だが、そのモヤモヤも、十一月になって、加藤文太郎が父親になったことによって解消された。いまや加藤文太郎は登志子さんという娘さんの父となり、名実共にわれわれ同期生のホープたる資格を|獲《か》ち得たのである。ここで、われわれは、われわれ同期生のうちで、もっともおそく父となった加藤の所感を聞こうではないか」  村野の挨拶が終ると、拍手が起った。加藤は頭を|掻《か》きながら立上ると、 「|親《おや》|父《じ》になった気持は悪くはないものです。これで、やっと一人前になって、みなさんとおつき合いができるようになりました。よろしくお願いします」  加藤はぺこんと頭をさげて坐った。 「加藤の奴、変ったなあ」  とひそかに|囁《ささや》く者もあった。以前の加藤なら、所感を述べろなんていわれても立つ男ではなかったし、だいたいこういう席に出ることはなかった。座は間もなく|賑《にぎ》やかになった。研修所時代の|懐《なつ》かしい思い出が語られた。若くして死んでいった幾人かの友人の名前の中に、新納友明の名前が出た。  加藤は、彼に地図の見方を教え、歩き方を教えてくれた、|痩《や》せた黒い顔をした新納友明のことを|想《おも》い出した。 「そうそう金川義助が満州に行ったそうではないか」  |誰《だれ》かが、そういっている声も聞えた。新納友明にしろ、金川義助にしろ、もし、そのままこの神港造船所に|止《とど》まっていたら、加藤と同じように技師になれた男であった。加藤はそう思いながら昔をなつかしんだ。  加藤は、酒を|注《つ》がれると、その|盃《さかずき》に必ず口をつけた。飲めなかったが飲む格好はした。加藤は、その会が終ったあと、花子のために、シュウマイの包みを|携《さ》げてその店を出た。神戸の海の|灯《ひ》が美しかった。友人たちとがやがやと中華料理店を出たところで、加藤は、ふと、海の見える館を見上げた。二階の部屋は|煌《こう》|々《こう》と灯がともっていた。そこには神戸登山会の事務所があった。加藤は、どの山岳会にも属してはいなかったが、地元の神戸登山会とは親しくつき合っていた。そこへは何度も来たことがあった。話を聞きに来たこともあるし、講演を頼まれて来たこともあった。  加藤が、神戸登山会の事務室の|灯《あか》りに眼をやっていると、加藤の視線に|曳《ひ》き出されたように海の見える館から出て来た男があった。その男は、大きな声で騒いでいる酔っぱらいの一群をやりすごそうとするかのように、門を出たところに立っていた。暗い外灯の光を頭から浴びた彼の姿は、雨に|濡《ぬ》れたように光って見え、ひどくみすぼらしく見えた。  その男が宮村健だとわかったとき、加藤は、はっとして足を止めた。友人たちと肩を組んで、そのまま行き過ぎてしまいたい心と、宮村健に声を掛けてやりたい気持とが、加藤の心の中でからみ合った。 「おい加藤、どうしたのだ」  村野孝吉が加藤に声をかけた。  村野が大きな声で加藤といったとき、下を向いていた宮村健がこっちを向いた。そして加藤と眼が会った。加藤は友人たちから抜け出ると、宮村健に声を掛けた。 「しばらくだったな、宮村君」  すると、宮村は、加藤の声の糸をたぐるように近づいて来ていった。 「加藤さん、実はぼく、これから加藤さんのところへ行こうと思っていたところなんです」  はずんだ声であった。夏ごろあったときにくらべて、宮村健はずっと明るくなったように感じた。 「おい加藤、二次会を逃げちゃあいけないぞ、あとできっとあそこへ来いよ」  村野孝吉は大声でそういったが、その二次会の行く先も告げずに行ってしまった。 「ぼくになんの用があるんだ」 「山なんです。冬の|北《きた》|鎌《かま》|尾《お》|根《ね》をやろうと思っているんですが、あそこはひとりでは無理です。だから、ぼくは相手を探していたんです。結局加藤さん以外にはないということがわかったんです。つまり、ぼくの山というものが加藤さんを起点として始まった以上、その終末も加藤さんとともにあるべきだと思ったのです」 「終末?」 「そうです。ぼくは山をやめる決心をしました。今度の山行を限りに山を|止《や》めて、満州へ行くことになりました。就職先も決っています」  満州と聞いたとき、加藤は、すぐ園子のことを思った。宮村健が園子のあとを追って行くつもりかもしれないと疑った。 「あの|女《ひと》のことはもういいんです。ちゃんと整理がつきました。あの|女《ひと》が満州のどこに住んでいようが、ぼくの知ったことではないんです。とにかくぼくは、ここで一つの結着をつけたいんです。そのために北鎌尾根をやりたいんです。加藤さんが、一緒に行くのがいやだとおっしゃるなら、ひとりでやります。力が尽きて倒れても悔いません。そのつもりなんです」  宮村健の心の傷はまだ直ってはいないと加藤は思った。冬の北鎌尾根をひとりでやるなどということは、自殺山行にひとしいことであった。単独行の加藤文太郎とうたわれた加藤自身も、それをやろうと考えたことはなかった。 「ぼくはこの冬のために、今年の夏から秋にかけて、北鎌尾根を二度縦走しました。加藤さんお願いです。ぼくとザイルを組んでくれませんか」  加藤は海上の|漁火《いさりび》を|眺《なが》めていた。漁火とはとてもつり合いが取れそうもないほどの星が輝いていた。  加藤は、まだ見えない眼でなにかを見ようとしている登志子を思い、その登志子を抱いている花子の横顔を|想《おも》い浮べた。  加藤は登志子を抱きたがった。抱き癖がつくからいけないと花子にいわれても、泣くとすぐ抱いた。|膝《ひざ》に登志子を抱いて揺すぶりながら、   白馬七月残りの雪の   あいだに咲き出す   花のかず  と|安曇《あ ず み》|節《ぶし》を歌っていることがあった。花子にはそれがふだん|機《き》|嫌《げん》がいいとき加藤が歌う、いつもの安曇節とは違って、ひどく間合いが延びて聞えた。おそらく、加藤は登志子に|子《こ》|守《もり》|唄《うた》でも聞かせてやるつもりでいるうちに別のことを考え出したのに違いないと思った。その別のこととは—— 「あなた、なにを考えていらっしゃるの、山のこと?」  花子には、登志子を抱いて安曇節を歌っている夫の眼の中に、山があることがはっきり読み取れた。 「そうだ、山のことだ」  加藤は|嘘《うそ》はいわなかった。  彼は、宮村健とともに冬の北鎌尾根へ行くべきかどうかを考えつづけていた。  加藤は山は信じたが、山において人は信じなかった。それが加藤文太郎の信条であった。山においては、結局は自分以外にたよるものはないという信念が、加藤を偉大なる登山家に仕立てあげた。加藤の長い山歴において、部分的には、他人と同行したことはあったが、完全に山行を共にしたことは一度もなかった。まして、ザイルを組もうなどといわれたことははじめてであった。おそらく独身時代の加藤だったならば、その場で宮村健の申出を拒絶したであろう。だが加藤はそれをことわらなかったのは、加藤が花子というすばらしい女性と家庭を持っていたからであった。加藤は花子を通じて、愛情というものを知った。人間は、ひとりでいるよりも複数でいるほうがより自然であり、より合理的であることを知った。彼の結婚生活と山とは比較すべきことではなかったが、加藤は、山においても、友情を持って結ばれるならば、ひとりでない方がいいのではないかというような気になりかけていた。  いつか、ヒマラヤに|挑戦《ちょうせん》するときが来たとしても、おそらく絶対といっていいほど、単独行ではあり得ないと考えると、もし山から離れることのできない人生だったならば、自己だけに依存し過ぎる主義を捨てて、パーティーを組む登山に入っていくべきではないかと考えた。  いまや、加藤の登山家としての地位は不動のものであった。もし彼が希望するならば、どの山岳会でも、喜んで彼をその会に迎えるだろうと思った。どこの山岳会に入るにしても、まずその手始めとして、宮村健と同行することは決して|無《む》|駄《だ》なことではないように考えられた。  花子と結婚して一年、山らしい山へは行っていなかった。北鎌尾根冬季縦走という登山家としては眼もくらむような誘惑は、加藤の心を揺すぶった。ここ十年間、正月休みに山へ行かなかったことはなかった。天気がどうであろうが、彼は山へ出かけていって、雪の中で|転《まろ》びころげて帰って来たものであった。彼にとっては正月休みの山行こそ、その一年間のもっとも恵まれた時であり、その日のために一年間、営々と働いているようなものであった。十二月に入ると、雪山のことで頭の中がいっぱいになり、なんとなく落着きがなくなった。それは加藤の一種の生理現象のようなものにさえなっていたのである。宮村が誘いをかけてもかけなくても、おそらく加藤は、その生理現象から逃れることはできなかったであろう。  その日、宮村から、会社の加藤に電話があって、好山荘運動具店で待っているといわれたとき、加藤は、いよいよ宮村に北鎌尾根縦走について、はっきりした回答をしなければならないと思った。  彼は退社時刻になると、いつものように机上を取り片づけて立上った。 「加藤君、ちょっと」  影村課長が加藤を呼んだ。 「きみは、もう結婚したし、子供さんもできたのだから今年の正月休みには山へは行かないだろうね」  加藤はなぜ影村がそんなことをいうのか不審に思った。山へ行こうが行くまいが、休暇中のことで課長の知ったことではなかった。加藤は、むっとした顔で影村を見ていた。久しぶりで、加藤らしい表情がそこに出ていた。 「正月休みだから、どこへ行こうが勝手だと思っているだろうが、きみの正月休みは長すぎる。一月四日に出勤したことはまずない。おそいときは十日を過ぎてから帰って来たこともあった。いままでは、独身だからということで大目に見ていたが、もう一人前になった君を特別待遇するわけにはいかない」 「だが課長、有給休暇はいつ取ってもいいことになっているでしょう。独身か独身でないかには関係がないはずです」 「それは君だけの理屈だ。実際はどうかね。この課で君のように、有給休暇をいっぱいに取っている者がほかにいるかね」  影村の陰険な眼は、加藤の心の中の山に向って、明らかに攻撃を開始したように見えた。加藤は有給休暇をいっぱいに取るかわり、会社の仕事の方は、人並み以上にやって来ていた。影村に文句をいわれる筋はいささかもないと自負していた。 「有給休暇を残したってたいした名誉なことではないと思います。やることだけをやれば、それでいいんじゃないかと思うんですが」 「すると今年も冬山へ行くというのだな」 「行きます。そういうことになっています」  加藤はいきがかり上、そういってしまった。有給休暇を残した方がいいなどという影村には負けたくない気持がそういってしまったのである。  影村は、横を向いて、ふんといった。それ以上なにもいわず、机の上をばたばた片づけると外へ出ていった。  好山荘運動具店主の志田|虎《とら》|之《の》|助《すけ》は、加藤の顔を見ると、いきなりいった。 「珍しいじゃあないか加藤君、ここのところさっぱり見えなかったが、|噂《うわさ》によると結婚して子供さんができたそうだね。おめでとう」  志田虎之助は笑顔を見せてそういうと、店の奥で、アイゼンの|爪《つめ》をいじくっている宮村健の方へちょっと眼をやって、 「一月早々に北鎌尾根を宮村君とやるんだって? それは、きみたちだから、危険なことはないだろうが、子供さんが生れてそう間もないうちに、冬山なんかへ出かけるのはどうかと思うな。いままでは、きみひとりだったが、今度は家族がいる。登山家だからただ山へ登ればいいというものでもなかろう」  志田虎之助は宮村には聞えないように声を落していった。 「だが、ぼくがいかないと、彼ひとりでは無理でしょう。彼はぼくが行かなくともひとりでやるといっています」 「だから、君は、そういう宮村君の気負い方を、おさえつけてやればいいのだ。それが先輩じゃあないのかな」  志田虎之助は加藤の肩を押すようにして店の外へつれ出していって、 「加藤君、ことしの冬は山へ行くのはやめて、奥さん孝行をしてやりなさい。山へ行くチャンスはいくらだってある。宮村君には、よくぼくがいって聞かせる」  加藤は志田虎之助にそういわれると、さっき会社を出るとき影村課長に、|反《はん》|発《ぱつ》して冬山へ行くといい切ったと同じように、どこからともなく、素直に引込めない気が持ち上ってきた。|痩《やせ》|我《が》|慢《まん》ではなかった。なにか、山のことだけに関しては他人の干渉を受け入れることはできないような気持が、彼をかたくなにしていた。 「わかったな加藤君」 「いいえ、ぼくは宮村君と北鎌尾根をやります。加藤には山だけしかないといわれようとも、いいんですぼくは……」  加藤君——といったが志田虎之助はその先をつづけるのを止めた。宮村健がうしろへ来たからであった。 「とにかくもう一度よく考えることだな、外山さんと相談して見るがいい」  外山三郎の名をいわれたとき、加藤の顔に混乱が起った。外山に冬山はやめろといわれたら、その言葉を振り切ってまで北鎌尾根へは行けないだろうと思った。      4  登志子は|日《ひ》|毎《ごと》に体重を増していった。  花子の母のさわが、 「この子は|干《ほし》|飯《い》に湯をかけたようによく|肥《ふと》る」  と表現したように、その生長ぶりは|産《さん》|婆《ば》も驚くほどであった。 「登志子よ、お前は干飯か」  加藤は登志子を膝に抱き上げて話しかけた。生れたばかりでまだ眼の見えない子に、なにをいってもわかるはずがないのに、加藤は、会社から帰って来て着がえをすませると、すぐ登志子を膝に抱いた。食事のときでも登志子を膝に置こうとするので、さわがややけわしい顔で、 「文太郎さん、もし熱いおつゆでも赤ちゃんの顔にこぼしたらたいへんなことになりますよ。赤ちゃんの皮膚は|茹《ゆ》で卵の皮よりも薄いんですよ」  加藤はしぶしぶと、登志子を|布《ふ》|団《とん》にかえしたが、食事の際も、近くに置かないと承知できないようであった。彼は育児についてひどく興味を感じたらしく、本屋で育児についての本を見ると、かたっぱしから買って来た。そのなかには�幼児の教育について�などという本さえあった。もともと加藤は読書好きであるから、それらの本は、たいてい一晩か二晩で読んでしまった。 「赤ちゃんの健康のバロメーターは泣き声と表情である。きょうは、いつもより泣き声が弱い」  会社から帰って来て、そんなことをいって、なんでもない登志子を小児科医に見せるといってきかないこともあった。花子にとって、そうした加藤の盲愛は、ときとすればいささか|滑《こっ》|稽《けい》に感じられるほどであった。 「どうも登志子は熱があるらしい。顔が赤い」  などと、赤ちゃんの顔に彼の額をくっつけている加藤を見て、さわは、 「文太郎さん、赤ちゃんは顔が赤いから赤ちゃんっていうんですよ」  とたしなめたことがあった。  文太郎にとって、登志子を抱き上げて、その乳くさい空気の中に包まれているときが、幸福の絶頂であった。 「登志子は、おれに似ている。|誰《だれ》がなんといってもおれにそっくりだ」  たしかに登志子は文太郎によく似ていた。その子をはじめて見た人は誰でも加藤に似ているといった。みんながそうみとめているのに、さらに彼は誰がなんといっても、おれに似ているなどといわねば承知ができないほど、その幼い生命に|耽《たん》|溺《でき》していたのであった。 「花子、お前の|身体《か ら だ》が丈夫になったら、この子をつれて赤倉へスキーに行こう。花子に背負わせたら危ないから、おれが登志子を背負って滑る」  加藤は|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔をしていった。加藤は、登志子が生れるちょっと前から、妻の花子にさんをつけるのをやめていた。 「文太郎さん。なんぼなんでも、赤ちゃんが生れるっていうのに自分の|女房《にょうぼう》にさんをつけて呼ぶのはおかしいからやめたらどうでしょう。花子だって、さんをつけられるより、呼び捨てにされたほうが気楽でいいにきまっています」  さわにそういわれても、加藤はしばらくの間、花子と呼び捨てにはできなかったが、さわが、花子、花子というのにつられて、いつのまにか花子と呼ぶようになっていた。  加藤にとって、そのころが絶頂であったように花子にとっても、その日、その日が喜びと希望に輝く日であった。登志子の誕生によって、家庭というものの、楽しさと明るさをしみじみと感じた。彼女は将来を想像した。期待した。夢みた。登志子の生長とともにふくらんでいくだろう家庭に対する彼女の抱負が、際限ないほどにひろがっていったところで、彼女は小さいころ、浜坂の海辺に立って、遠く水平線を眺めたときの|寂寥感《せきりょうかん》に似たものにふと襲われるのである。それは現在幸福であるという一つの家庭現象に対する反作用のようなものであったのかも知れないが、花子に、そのような不安を起させるのは、登志子を抱いている加藤が、ときどき深刻な顔をして、なにかを考えているのを見るからであった。山のことを考えているのだなと花子は思った。そして、その深刻な加藤の顔が、夏ごろ一度来たことのある死を見つめているような眼つきをした宮村健とつながった。  だが花子は宮村と加藤の結びつきについて、加藤に問いただそうとはしなかった。結婚して一年足らずであった。あまり|穿《せん》|鑿《さく》がましいことを夫に|訊《き》くのは、はばからねばならないという新妻のつつしみ深さであった。  加藤は、冬の|北《きた》|鎌《かま》|尾《お》|根《ね》山行を宮村と共にすべきかどうかの決心をつけねばならないところに来ていた。宮村の方では加藤が八分どおり同行するものと思いこんでいるようであったが、加藤の方から、はっきりと同行の意思表示はしてなかった。だが、早晩そのことをはっきりしなければならないことになっていた。二人でパーティーを組む以上、二人で日程やコースを相談しなければならなかった。単独行しかやったことのない加藤にとって、それはわずらわしいことであったが、そこにパーティーを組む意味があるのだと考えれば、やはり共同でプランを立てねばならなかった。その日こそ、加藤がはっきりと自分の態度を決定すべき日であった。影村課長にも、志田虎之助にも、冬山へ行くという意志を伝えていたけれど、いよいよ決定の日が近づいて来るとなにかうしろ髪をひかれる思いがした。花子と登志子のことが気がかりになった。志田虎之助にいわれたことが、大きくクローズアップされて来た。 「家の方には赤ん坊が生れてなにかとごたついているし、会社の方も新年早々いそがしい仕事があるから、今度はやめにするよ」  宮村から電話が来たら、そのようにことわろうと思うこともあったが、さて、電話が来た場合、はっきりそういえる自信はなかった。  冬山について考える日が多くなった。昭和三年以来、一度も欠かしたことのない冬山山行を、今年に限って中止することが、へんなような気さえした。切れるような寒さ、眼も開けられないような強烈な吹雪、そして、すかっと晴れた雪原に長々と横たわる自分の影、そういう情景が断片的に浮んで来ると、会社ではコンパスを持った手が止り、家では抱いている登志子の重さを感じなくなるのである。  加藤には迷いの中にいる自分がよくわかっていた。その迷いを山まで持ちこむことは危険だということも知り切っていた。そういうときこそ外山三郎のところへ行くべきであったが、外山三郎に余計な心配をかけてはならないという気持が、それを止めた。外山三郎にだけは遠慮なく、なんでもいえた加藤が、それをいわなかったことも、加藤にとってすこぶる不幸なことであった。  彼は迷いを自分だけの力によって克服しようとした。ねじ伏せようとした。  その日は午後になって温度が急降して、神戸の十二月としては、例年になく寒い日であった。  加藤は五時少し過ぎに会社の門を出た。同僚と一緒に大きな声で話をしていたから、門のところで宮村健が彼を待っているのも気がつかなかった。  宮村健に呼びとめられた加藤は、はっとした。とうとうその日が来たなと思った。 「待っていたのか」 「はい。どうせ暇だから、ぶらぶらしながら待っていました」  宮村健はそういうと、先に立って、とっとと歩き出した。すべて加藤を見習っている宮村は、歩くことにおいても、加藤と同様に速かった。ともすれば加藤の方が置いていかれそうに速かった。  電車通りに出ると宮村健は、 「加藤さん、三宮へ行きましょう」  というと、ちょうどそこへ来た電車にとび乗った。宮村が強引に加藤をどこかへ引張っていこうとする意志が|明瞭《めいりょう》であった。加藤はその宮村のうしろ姿を見ながら、あそこへ行こうとしているのではないかと思ったとおり、宮村が先に立って入ったところは、喫茶店ベルボーであった。経営者も従業員もすべてかわっていたが、中の構造は前と同じだった。 「加藤さん、もし、あなたが北鎌尾根をぼくとやるつもりなら、そろそろ用意をしなけりゃあいけないころだと思います。行くんだか、行かないんだかはっきりしてもらわないと、ぼくだって困ります」  宮村健は|坐《すわ》るとすぐいった。そのまえにいうべきことはすべていってしまって、結論だけを加藤に求めたような話しぶりであった。その宮村は、いままでの宮村とは違って急にいくつか|年《と》|齢《し》をとったように見えた。 「いろいろ都合があってね。独身のころのようにはいかないんだ」  加藤は予防線を張った。 「というと、行かないっていうことですか。やはり噂のように、加藤文太郎は、家庭を持つと同時に山を捨てたってわけですね」  宮村の声は|上《うわ》ずったように聞えた。 「行かないとはいってはいない。いろいろと都合があるといっているのだ」 「要するに行かないんですね。わかりました。これ以上あなたをたよりになんかしません」  宮村健の眼に光るものがあった。彼はその|泪《なみだ》をかくすように彼の前に運ばれて来たコーヒーをがぶ飲みすると、さっさと立上って、カウンターへ行って二人分の料金を支払った。宮村はひどく|昂《こう》|奮《ふん》していた。うっかりしたことをいうと、怒鳴りつけられそうだった。 「どうしたんだ、宮村君」  外へ出てから加藤がいった。 「どうもしません。ベルボーで加藤さんとぼくとはザイルで結ばれ、そして、今そのザイルが切られたのです」  宮村健は加藤を置いて|闇《やみ》の中へ消えた。  その翌々日、加藤は会社で宮村健の父の訪問を受けた。 「思いあまって来ました」  いかにも実直な商人らしい態度で、宮村健の父親は話し出した。 「悪いこととは知りながら、あまり健のことが心配なので、健のいないとき、こっそり、健の日記を読んでいました。健にS子という女がいたことも、その女が健を捨てて、満州へ行ったことも知っています。その健の日記が、このごろ、なんとなく明るくなったと喜んでいたところが、一昨日の夜書いた日記を見るとへんなんです。Kとのザイルは切れた。ひとりで死の北鎌尾根をやる、などと書いてあるのです。このKというのが加藤さんだということは、ずっと前からわかっておりました。……つまり、今日私がここに来たのは、加藤さんになんとかして健のすさみきった気持を静めてやってはいただけないかというお願いなんです。健はあなたを神様のように思っています。あなたに捨てられたとなると、健はほんとうに死ぬかも知れません」  宮村健の父親は何度か涙をぬぐった。 「健はこんどの山行を最後に、山をやめて、満州へ行くことになっています。そこで立派に立直るつもりなんです。親としては、今度の山行だけはなんとか成功させてやりたいと願っております。ご迷惑でしょうが、ベテランのあなたが|傍《そば》にいてくださったらと願うのも、親心というものでしょうか」  宮村健の父親は、彼の家の電話番号を印刷した名刺を加藤の前に置いた。  部屋に帰ると、影村課長が、課員の主だった者二人を机の前に呼んで、大きな声でしゃべっていた。 「きみたち二人は、来年一月六日から|横《よこ》|須《す》|賀《か》の海軍|工廠《こうしょう》で開かれる特殊ディーゼルエンジン研究会に出席することが許可されたのだ。いまからその準備をして置くように」  影村課長の前に立っていた二人の技手は、そろっておじぎをして彼らの席へさがった。  加藤はその研究会があるらしいということを薄々知っていたが、まさか新年早々とは思っていなかった。|噂《うわさ》によると来年の春ということであった。そこに出席する者は神港造船所の中でも、特に優秀な技師または技師に昇格する予定の技手ということになっていた。そこに出席することは海軍にその技能を認められたことになり、将来の栄達にも影響があった。 「ぼくはどうなっているのでしょう」  加藤は影村課長のところにいっていった。 「きみはついこの間、今年も正月山行をやるといったろう。冬山山行をやるとすれば帰って来るのは一月十日ごろになる。たとえ六日に出席できるように帰って来たところで、疲れているから、むずかしいことは頭に入らないだろう。立木海軍技師にたのんで願いさげにしてもらったのだ」  影村技師はそういうと、顔色をかえて立っている加藤をよそに書類を開いた。  十日ほど前、たしかに加藤は、影村に冬山へ行くといった。それは売り言葉に買い言葉的なやりとりで決定的なものではなかった。そのことを根に持って、技術者としての晴れ舞台を拒否した影村課長のやり方に、加藤は激しい怒りを覚えた。  加藤は、白銀の山を思った。よし、影村が山へ行けというならいってやろう。だが加藤は、そのときすぐ宮村へ電話をかけるようなことはしなかった。  加藤はさらに幾日か考えつづけた。冬山へ行くとすれば従来どおりの単独行がよかった。すべての責任を自分ひとりで背負いこむ単独行こそ、彼の本領であったが、宮村健に同行を誘われ、彼の父からもそのことをたのまれているのに、|敢《あ》えてその願いをしりぞけてまでひとりで山へでかけるのは気がひけた。  冬山へ行くか行かないかは、結局、宮村健と行動を共にするかどうかになった。  加藤は暮がせまって来ると無口になっていった。冬山への誘惑が、そのころになって急速に|擡《たい》|頭《とう》したのである。行くとすれば準備にかからねばならなかった。事前準備こそ山行の重要なる行程のひとつであった。 「健は十二月二十六日には神戸を|発《た》つつもりのようです。ゆうべ、私に、今度の山行を最後にして山をやめるから、山へやらしてくれとはっきりいいました。いままでは黙って支度をして黙って出ていったのが、今度にかぎってそんなふうにいわれると、また心配になりましてね……。加藤さんどうしてもだめでしょうか」  宮村健の父親から電話があったのは、十二月二十日であった。 「よくわかりました。明日中に必ずお返事いたします」  加藤はそのとき、半ば心を決めていた。 (今度の山行を最後として山をやめる)  その宮村の言葉が、そのときの加藤にとって、すばらしい啓示になったのである。  家庭人となった以上、いつまでも従来どおりの山男であってはならないということを、加藤は百も承知していた。彼は今、その区切り点に来ているのだと思った。 (今度の山行を最後として危険な冬山山行はやめる。せいぜい夏山へでかけるくらいにする)  このように花子にいったら花子も納得するだろうし、彼自身も納得できた。加藤は宮村健のいい方を|真《ま》|似《ね》たのだとは思いたくなかった。結婚したときすでになんらかの形で、冬山からは離れなければならないと思った。そのときが来たのだ。 (宮村健のために冬山へ行くのではない。こんどの山行は冬山との|訣《けつ》|別《べつ》山行である。たまたま宮村と同行するまでのことなんだ)  加藤はつぎの日の昼休み時間に、上|祇《ぎ》|園《おん》町の宮村乾物店に電話をかけた。 「加藤です。|健《たけし》君いますか」  加藤は、宮村がもしいなかったら、会社がひけてから、もう一度電話をしようと思っていた。 「ちょっとお待ち下さい。すぐ呼んでまいりますから」  電話に出たのは宮村健の母親だった。  電話に出た宮村の声はなんとなくつめたかった。宮村です、とぶっきらぼうに答えた宮村の顔が加藤には見えるようだった。宮村はまだ怒っているのだなと思った。 「君と一緒に北鎌尾根をやることにしたよ」 「ほんとですか、加藤さん」  宮村の声はまだ疑っているようだった。 「打合せをしたいから今夜ぼくの家へ来てくれ。計画表は作ってあるだろう。食糧、燃料、用具などの表も作ってあるだろう。それを持って来てくれないか」 「加藤さん、ほんとうに行くんですね。ぼくのために……」  言葉がとぎれた。加藤は受話器の中に宮村健がすすり上げる音を聞いた。  その夜、加藤と宮村は、加藤の寒い応接間で、遅くまで北鎌尾根山行について打合せをしていた。  花子は応接間にお茶を運んでいったとき加藤と宮村が、ひどく熱心に山のことを話しているのを見た。加藤は地図を開いて、宮村になにか説明していた。花子の入って来たことにも気がつかないようだった。宮村もそうだった。火の気のない部屋で、|上《うわ》|衣《ぎ》もつけずにいて、しかも上気したように顔を赤くしているのは、冬山山行という、山男たちの情熱の場に浸りこんでいる証拠のように見えた。 「ここへ置いていきます」  花子は、茶菓子をそこに置いた。 「ああ——」  加藤は花子の方をふりむきもせずにいった。花子は応接間を出たとき、身ぶるいするような|悪《お》|寒《かん》に襲われた。 (加藤をあの宮村と一緒に山へやってはいけないのだ)  花子はしばらくそこにじっとしていた。  宮村は十一時を過ぎてから、帰っていった。玄関の|鍵《かぎ》をしめて、引きかえして来る加藤を、花子は登志子の寝ている|布《ふ》|団《とん》の|傍《そば》で待っていた。 「山へ行くのね」  花子は登志子に話しかけるようにいった。登志子はよく眠っていた。 「今度の山行を最後に冬山はやめようと思っている。いわば、その区切りをつけるようなものなんだ」 「宮村さんと一緒に山へ行ったことがあるの——」  花子は山のことは知らなかったが、宮村と加藤とが山へ行くことが不安でならなかった。 「今度がはじめてなんだ。だがあいつは大丈夫だ。おれと同じぐらい山をやっている」  花子はそれ以上なにもいうことはなかった。あるとすれば、彼女の心の中の不安をいうしかなかった。しかし旅に出る前にそのようなことを|洩《も》らすべきではないと思った。 「心配しているのか花子。おれが山で死ぬとでも思っているのか」  加藤がそういって笑いかけたとき、それまで静かに寝ていた登志子が、突然、眼を覚まして、激しく泣き出した。乳の欲しい泣き方ではなく、肉体的苦痛をうったえる切実な泣き方であった。隣の部屋で寝ているさわが眼を覚まして起き出たほど、その泣き方は激しかった。 「どうしたのだ、登志子。夢でも見たのか」  加藤は登志子を抱き上げると、起き出て来たさわに、赤ん坊も夢を見ることがあるのかと|訊《き》いた。  登志子は加藤に抱え上げられるとすぐ黙って、なにもなかったように、また眠りこんだ。だがその登志子を、布団に寝かせると、前にもまして激しく泣き出すのである。 「抱きぐせがついたのよ」  さわはそういって、ふすまをしめた。  加藤は登志子を|膝《ひざ》に抱いてその寝顔を見つめながら、 「お父さんが山へ行くのがいやなのか、登志子。それで泣いたんだろう」  加藤は登志子を抱いてそうしていると、さっきまであれほど山行計画に夢中になっていた自分が、なにか重大な間違いをおかしているように思われて来るのである。 「登志子をこうして抱いていると、山へ行くのはいやになる——」  加藤はつぶやいた。 「では山へ行くのはやめていただけないかしら。お母さんはもうすぐ故郷へ帰るし、あとは私と登志子とふたりっきりでしょう」  花子は結婚してはじめての自己主張をした。冬山へ行くのはなんとかして思い|留《とど》まってもらいたかった。彼を山へやらないためには、どんなことをしてもいいとさえ思ったが、花子は、彼女の不安をそのままそっくり加藤にぶつけていくことができなかった。 「約束してしまったので、いまさらどうにもならないのだ」  そのとき加藤は、ひどく大儀そうにいった。約束した以上、いまさら取りやめる気はなかったが、もし、万が一、宮村健の方で都合が悪いといったら、むしろ喜んで、その山行は取りやめにしようと思っていた。考えに考えたうえで決めたことだったが、それにもかかわらず、登志子という幼い生命が、しきりに彼を引き止めにかかっているように思われ、それが気懸りであった。  翌朝、加藤はさわに、山へ行くから正月中神戸にいてくれるようにたのんだ。 「それは、いてやってもいいけれど、赤ちゃんが生れたばかりだというのに、なにも好きこのんで、山へなんか行かなくてもいいのにねえ」  さわは皮肉をいった。  加藤の山へ行く準備がはじまった。いつものように、甘納豆を注文して作らせたり、|乾《ほ》し小魚の油いためを用意したりした。内側に毛糸の手袋、外側はネルの布地の上に防水布を縫いつけて作った、肩までとどくほど長い自製の手袋を用意したり、|眼《め》のところだけセルロイドにしてあとはすっぽりとかぶってしまう、加藤式ウィンドヤッケなどを点検した。|樺《から》|太《ふと》|犬《けん》の毛皮で作った胴着のほころびは慎重に補修した。  花子は裁縫が上手だったが、山の準備に関するかぎり、加藤は花子に手伝わせるようなことはしなかった。自分で針を持ち、糸をとおしていった。  花子は、意外に器用な手つきで針を動かしていく加藤の手元を見つめながら、山に関するかぎり、彼とは別なところに住んでいるのだと思った。夫婦という最小単位の集合体の中に、全然、夫婦とは別な山というものが介在していることがにくらしかった。その山というものが、いまや加藤にとって、花子よりも重きをなしつつあることは、彼が、無口になって来たことを見ても了解できた。あきらめる前に、彼女は少しでもいいから、加藤と山との間に身を置きたかった。 「なにか、私のお手伝いすることがないかしら」  花子は、アイゼンの|紐《ひも》をたしかめている加藤にいった。 「なにもないんだ。山の支度はどんなこまかいことでも自分でやらないといけないんだ」  応接間いっぱいにひろげた山道具の中に|坐《すわ》っている加藤は、アイゼンの紐を両手で力いっぱい引張りながらいった。花子が立ち入る余裕はなかった。  十二月二十七日、加藤は会社の廊下で外山三郎を見掛けた。加藤は外山の姿を見かけた途端、廊下を左の方へまがった。そっちには用がないのだが、外山に会って山のことでも訊かれたら答えねばならない。|北《きた》|鎌《かま》|尾《お》|根《ね》を宮村とやるといえば、外山はきっと止めるだろう。いまさらやめろといってもやめられるものではなかった。  外山三郎は、加藤の姿が急に横にそれたことに不審を持った。どうも、外山をさけたように思われた。なぜ加藤が自分をさけたのだろうか。外山はそれが気懸りになったので、彼の部屋に帰ってしばらくたってから、隣の内燃機関設計部第三課を|覗《のぞ》いたが、加藤はそこにはいなかった。  なにかと年末で、部屋中がごたごたしていた。人の出入りが多かった。まるで年末のいそがしいときを|狙《ねら》っていたように面倒臭い図面を持って来て、いい気になってしゃべりまくっていた川村内燃機関部長が腰を上げたのが午後五時半であった。  外山三郎はまた隣の第三課を覗いてみた。加藤の態度がどうしても釈然としなかったからだ。とにかく加藤に会えば、なにかがわかるだろうと思った。  加藤はすでに席にいなかった。  影村と、二、三人の若い技手が帰り支度をしていた。 「加藤君は帰ったかね」  外山三郎は影村に呼びかけた。 「ああ、いま帰ったばかりです。赤ちゃんが生れてから帰宅時刻が早くなりましたよ」  影村は外山に笑顔を見せながらいった。いかにも加藤を理解してやっているような外交的な笑いを浮べながら、眼の|隅《すみ》の方では外山三郎がなにしに来たかを探知しようとしていた。 「なにか、加藤に……」 「いや、別に用はないんだ。また明日の朝でも来よう」  外山三郎は、そういって、第三課を出ていった。影村は外山になにもいわなかった。加藤文太郎が明日から休暇を取っているとひとこといえば、外山はそれで、加藤が外山をさけた意味を|洞《どう》|察《さつ》して、その足で、加藤の家へ行って、山行をたしかめ、 (単独行しかやったことのないきみが、はじめてのパーティーを組んでの山行に、ところもあろうに北鎌尾根をやるとはいったいどういうことなのだ)  そしておそらく、外山はその山行をやめさせるか、少なくとも計画の変更をすすめたであろう。が、それはすべて、あとでの悔いごとであった。  その夜、外山三郎が自宅へ帰って夕刊に眼をとおしているころ、加藤は、ルックザックに山行の材料をつめこんでいた。 「このお|餅《もち》を持っていって……」  花子が正月用に用意した切り餅を、二十個ほど油紙に包んで、それに五枚ほどの葉書を添えて出した。 「いいんだ。食糧は充分用意してある」 「でも、お|腹《なか》がすくといけないから」  花子は、無理にでも、その餅を加藤のルックザックに入れようとした。 「要らないといったら要らないんだ」  加藤は、きつい眼をして花子を|睨《にら》んだが、困った顔でいる花子を見ると、すぐ、 「その葉書はもらっていこう」  といって、ルックザックのポケットにしまいこんだ。  花子は、山へ行く夫にしてやれたことは、結局五枚の葉書を|揃《そろ》えたにすぎないのだと思うと、捨てられたような|淋《さび》しさを感じた。涙が出そうだった。      5  花子は加藤と一緒に玄関まで行ったが、すぐ引返して来て、母のさわにいった。 「登志子もつれていくわ」 「登志子を、……きょうはいつもより寒いのよ」  しかし、さわは、花子の眼の中に、いつになくはげしい彼女の主張をみとめると、|強《し》いては引止めずに、布団の中で、すやすやと眠っている登志子を抱き起して、メリンスの|牡《ぼ》|丹《たん》の花模様のおくるみに包んで花子に抱かせた。それでも寒そうだったから、毛糸で編んだ白いショールで登志子の顔を包んでから、 「さあ登志子、お父さんの見送りにいっておいで」  生れてまだ一カ月半にしかならない登志子は、眠っているところを起されたが、別に泣き出すこともなく、花子に抱かれてじっとしていた。  大きなルックザックを背負った加藤は、花子とつれ立って外へ出ると、 「ではお願いします」  加藤はもう一度、さわに|挨《あい》|拶《さつ》してから、|兎《うさぎ》の皮を裏に縫いつけてあるスキー帽をかぶり直して歩き出した。 「よく眠っているようだな」  加藤は花子に抱かれている登志子の顔を覗きこむようにしていった。 「起きているわ。でも、まぶしいから眼をふさいでいるのよ。眼が見えなくとも、明るさはわかるのよ」 「そうか、起きているのか」  加藤は、右の肩に|担《かつ》いでいるスキーを左肩に担ぎかえると、ずっと花子の方へ寄って来て、右手の人差し指を登志子の|頬《ほお》に軽くふれた。登志子はその|刺《し》|戟《げき》に|応《こた》えるように眼を開いて、加藤の顔を見た。見たのではなく、偶然にそちらを向いたのだが、加藤には、その登志子の眼がまだ視力を充分備えていない|嬰子《みどりご》のうつろの|瞳《ひとみ》ではなく、もう充分に物を識別できる眼に見えた。|吾《わ》が子がはっきりと自分を見詰めているように思われてならなかった。登志子の眼は花子に似て大きかった。黒曜石のように黒く輝く眼は、いつものように、ただ開かれているのではなく、はっきり加藤の顔に焦点を合わせているように思われた。 「登志子はもう眼が見えるよ、じっとおれの顔を見ている」 「登志子もお父さんが山へ行くので、淋しがっているのよ」 「そうか登志子、お父さんがいなくて淋しいのか。一週間たてば、お父さんは帰って来るからな」  加藤は、登志子の頬にもう一度右手の指を出そうとしたが、そのとき登志子が眼をつぶったので、あわててひっこめて、 「登志子は眼をつぶったよ、やはりまぶしいのかな」  加藤は空を見上げた。薄曇りの空でまぶしいというほどのことはなかった。加藤は、花子と歩調を合わせるためにかなりゆっくり歩いていた。年の暮で人の往来がかなりはげしかったが、ものものしい山支度をして、スキーを担いでいく加藤の姿は目立つらしく、物珍しそうにじろじろ見ていく人がいた。加藤と花子のうしろから、男の子が大きな声でいい争いながらやって来たが、長田神社の前まで来ると少年たちはふたりを追い越し、そこでまた大声でやり合ってから、近づいて来る加藤と花子に向っていった。 「くれ[#「くれ」に丸傍点]っていう字はこうですねえ」  少年の一人が、小石を拾って土の上に、字を書こうとすると、もう一人の少年も負けないように土の上に字を書いた。加藤と花子は少年たちに行く先を邪魔されたかたちになったままで、少年たちの字ができ上るのを待っていた。  一人の少年は暮と書き、そして、一人の少年は墓と書いた。 「そっちがくれ[#「くれ」に丸傍点]だ。こっちははか[#「はか」に丸傍点]という字だ」  加藤はそういって笑った。少年の一人は、胸をそらして、勝利を誇示し、墓と書いた少年は、手に持っていた石を、にくにくしげに大地にたたきつけると、 「どうでもいいやい」  といって、走り去った。  花子は少年たちが書いた暮と、墓という字を見詰めていた。暮という字のくさかんむりがひんまがり、墓という字の土が、大きすぎた。だが、その二つの字は暮と墓には間違いなかった。日と土の違いで、随分違った意味になるものだという、小さな発見ではなく、花子は、並んで書かれている暮と墓の字を、暮—墓と縦に並べて読んでいた。身がすくみそうな|悪《お》|寒《かん》に襲われた。暮—墓、それはこれから山へ行こうとする加藤の運命を暗示したもののような気がした。 「どうしたのだ」  加藤にも気がつくほど、花子の顔は青かった。 「寒いの……」 「寒い? それはいけない、風邪でも引いたらたいへんだ。さあお帰り」 「でもそこまで」 「いいんだ、それより、はやく帰って|炬《こ》|燵《たつ》に当りなさい」  花子は首をふった。夫は自分の気持がわかっていてはくれない。が、暮と墓の説明を、旅立つ夫にいうこともなかった。旅に出る夫は笑顔で送るべきである——|誰《だれ》から教えられたのでもないが、彼女はそう思っていた。  加藤の足がやや速くなった。めったに乗物に乗らない夫のことだから、このまま神戸の駅まで歩いて行くつもりだろうと花子は思った。神戸の駅まで送ってはいけそうもないが、どこまで送っていくというあてもなかった。花子は夫とはなれたくないという気持だけでついていった。暮と墓のことは忘れて、笑顔で送られるように気持をかえるにも、時間が必要だった。 「花子、|身体《か ら だ》に毒だ。はやく帰れ」  ややとがった加藤の声がしたと思うと、加藤が花子を追抜いて大通りに出て手を上げた。  タクシーがふたりの前に滑りこんで来て止った。寒いといいながらも、ついて来ようとする花子を帰宅させるためには、彼がタクシーに乗るのがいいと思ったのである。  加藤は、ルックザックをおし込み、スキーを助手台と客の席に斜めにわたしかけてから、乗り込んだ。  運転手がドアーをしめた。加藤が花子に話しかけようとして、こっちを向いたとき自動車はもう動き出した。  花子は一枚のガラス越しに加藤の顔を見た。加藤は笑いかけていたが、それは笑いではなく、笑いの化石のようにこわばって見えた。写真で見る笑いのようであった。いつも|見《み》|馴《な》れている彼女の夫の笑いではなく、夫の形をしている夫の影の笑いのような暗い笑い顔であった。 (いけない、夫を山へやってはいけない。絶対に山にやってはならない)  花子はそう思った。理由はなかった。それは愛している者の直感でしかなかったが、そのときの彼女は必死に、その直感の糸にすがろうとしていた。  花子は、待ってちょうだい、といいながら自動車を追った。気持の上では自動車に追いつけそうな気がした。夫を山へやっては、取りかえしのつかないことになる。引き止めねばならないという妻としての義務感のようなものが彼女を走らせた。  眼の前が暗くなったような気がした。|呼《い》|吸《き》がつまった。どうにもならないほど厚く高い壁にぶつかったと思ったとたんに、|下《げ》|駄《た》の鼻緒が切れた。彼女は前にのめった。危うく倒れるところであった。  花子は登志子を抱きしめたまま、しばらくそこにしゃがみこんでいた。絶望感が彼女をおおった。つまずいたときの衝撃に驚いたのか、登志子が泣き出した。花子は鼻緒の切れた下駄を拾って立上った。彼女は登志子と一緒に、声を上げて泣きたいほど悲しかった。涙がとめどなく流れた。彼女はそれを|拭《ぬぐ》おうともしなかった。もと来た道を長田神社のところまで引き返した。神社の鳥居が見えたとき、彼女はふと、夫の無事を祈ろうかと思った。涙は止ったが、鼻緒の切れた下駄をさげている自分の格好が、あまりにも、みじめに思われた。彼女は緒の切れた片方の下駄を地上に置いた。祈る気持より悲しみの方がつよく彼女を押えつけた。花子は幼いころ、郷里の|宇《う》|都《づ》|野《の》神社で、鼻緒を切らして泣いているところへ現われた加藤のことをふと思い出した。そのときの花子の下駄の鼻緒は赤だった。そして、いまさっき切れた鼻緒も赤であった。  加藤と宮村が|蒲《がま》|田《た》|川《がわ》の橋を渡って|栃《とち》|尾《お》に入ったときにはもう日は沈んでいた。加藤は村の人に郵便局の所在を尋ねた。すぐそこだった。加藤はルックザックのポケットから、花子が油紙に包んで入れてくれた葉書を取り出すと、ルックザックを机がわりにして鉛筆を走らせた。 「信州側から|乗《のり》|鞍《くら》|岳《だけ》へ登り、肩の小屋で宮村君と落合う。本日乗鞍頂上より平湯を通り、ただいま栃尾村到着(十二月三十一日午後四時四十三分)、今夜は|槍《やり》|見《み》温泉泊りの予定。雪が胸までのところもあったが快適だった」  小さな字でそこまで書いて、さらにそのあとに、なにかひとこと書こうとしたが、その文句が容易に出て来なかった。心配しないようにだとか、体調は絶好だとかそういうきまり文句より、ほんとうは、加藤を送りに出て来た花子が、その後風邪でも引きこんで寝てはいないかという心配を文字にしたかった。彼が乗ったタクシーが走り出した瞬間、花子が登志子を抱いたまま、なにか叫び声を上げて追いすがろうとしたが、スキーが邪魔になってふり向けなかった。その後味の悪い別れ方についても、なんとかひとこと書きたかったが、さて文句にしようとすると、なにも書くことはなかった。素手で握っている鉛筆が冷たかった。  宮村健が、加藤がしゃがみこんでいるまわりを歩き|廻《まわ》っていた。じっとしていると足の先が冷たいのである。加藤は、二行ほどの余白を残したまま、その葉書を|投《とう》|函《かん》した。枯葉が一枚落ちたほどのかすかな音を感ずると同時に加藤は、 「花子、なにも心配することはない。天候もいいし、身体の調子も絶好だ。おそらく予定通りに、四日には家へ帰れるだろう」  そう書くべきであったと思った。  蒲田川ぞいの雪の道に、真新しい|橇《そり》の跡がついていた。橇の跡にまじって、|登《と》|山《ざん》|靴《ぐつ》の跡がところどころにあった。一人や二人ではなく、七、八人の人が歩いた跡だった。 「これでは槍の肩の小屋は満員ですよ」  宮村健がちょっと心配そうな顔をしていった。 「さあ、これだけのうちで何人槍へ登れるかな」  加藤は、おそらくこの季節に槍へ行こうというものは、そう多くはないだろうと思っていた。  槍見温泉には日暮れと同時についた。ふたりはその日の終着点を確認するように顔を見合せてから、どちらからということもなく、焼岳の方へ眼をやった。煙は東になびいていた。上空は西風が強いのだ。 「明日も、風は強いが天気はよさそうだな」  加藤はひとりごとをいって、槍見温泉の方へ歩いていった。橇が旅館の前に置かれてあった。 「今晩は」  と玄関で、宮村が|彼《かれ》|等《ら》の到着をわざと顕示するような大きな声で家人を呼んだ。  宿の主人が顔を出し、つづいて、泊り客らしい男が顔を出した。加藤は玄関に脱いである靴を見て、七、八名の客がいるなと思った。 「宮村君じゃあないか」  |露《ろ》|天《てん》|風《ぶ》|呂《ろ》へでもいくらしい格好で廊下へ出て来た二人づれのひとりが宮村に声をかけた。 「ああ、市川さん、水野さんも一緒ですか」  そして、宮村は、すぐふりかえって加藤に神戸登山会の市川と水野を紹介した。市川も水野も、加藤のことはよく知っていた。加藤の講演を聞いたこともあった。 「槍ですか」  宮村が|訊《き》くと、市川は、 「冬の槍ヶ岳などとがらにもないことをいうようですが、行けるところまで行って見ようと思いましてね」  市川は水野と顔を見合せて笑った。 「じゃあ、ちょうどいい。御一緒に願いましょうか」  宮村は、彼が所属している山岳会のメンバーと槍見温泉で会ったことで、かなりはしゃいでいた。  ふたりが通された二階の部屋の北側の窓から、いままさに夜を迎えようとしている槍の穂先が見えた。槍の穂先が空の暗さの中に溶けこもうとしている一瞬だった。槍の穂先がちょっぴり見えたというだけだったが、二人にとっては、それがたいへんな喜びだった。 「この宿には三組のパーティーがいます。一組は東京のパーティーで同行三人。もう一組はドイツ人のパーティーです。男が三人に女が一人、それぞれに案内人が一人ずつついていきます。やはり槍へ登るのだそうです。ドイツ人の一人は、日本語がかなり上手です。それにもう一組は市川さんと水野さんのパーティーです。なかなかどうして、正月の槍はたいへんな|賑《にぎ》わいぶりを見せることになりますね」  夕食後、階下へおりていった宮村健は、部屋にもどって来て、地図を調べている加藤にいった。 「そうかね、どうせなら賑やかな方が正月らしくていいじゃあないか」  加藤は宮村の顔にちらっと眼をやった。宮村の顔は、酒でも飲んだように赤かった。山の知人や、外国人の登山家に会ったことなどで|昂《こう》|奮《ふん》しているのだなと思った。夏のころ神戸で会ったとき、なにか思いつめたような|憂《ゆう》|鬱《うつ》な顔をしていた宮村が、こんどの山行を加藤と約束して以来、また以前のように明るい青年になったことは、加藤にとって|嬉《うれ》しいことではあったが、槍見温泉についてから、宮村が、やや|饒舌《じょうぜつ》になりすぎたのが心配だった。  加藤は宮村とのはじめての山行であった。ほとんど加藤に匹敵するほどの単独行をやっている宮村のことだから、登山技術も体力も|勝《すぐ》れていることは間違いのないことであり、そして、冬の山への熟練度は、乗鞍岳登山によって充分|窺《き》|知《ち》することはできたが、他のことについてはまだ加藤はなにも知ってはいなかった。 (そうだ、山からおりて来て他人に会うと、やたらに話しかけて見たい気になることがよくあるものだ)  加藤は、彼が単独行をはじめた当初、人恋しさのあまりに、わざわざ廻り道をして、人のいそうな小屋をたずねたり、他の登山者と同行しようとして|嫌《きら》われたことを思い出した。 (宮村君は若いから無理はない。もう少しひとりで山をやっていると、他の登山者に対して関心を持たなくてすむようになるのだ)  加藤は宮村のために、心の中で弁解してやっていた。 「連中は、明日の朝七時にはここを|発《た》つそうです」 「七時ね。いいだろう、ぼくらもそのころにしよう。ところで市川さんと水野さんはどうするのかね」 「話してみました。同じ神戸だし、同じ山岳会だし、ここで会って別行動というわけにもいかないでしょう。一緒ということにしました。いいでしょう加藤さん」  宮村は加藤の顔を|窺《うかが》うように見た。 「ぼくはかまわないが、むこう様に迷惑にならないかな」  加藤は自分自身の力量をよく知っていた。宮村なら加藤のペースに追従できるけれど、他の人たちは無理ではないかと思った。加藤はうぬぼれていたのではなく、いままでの経験からそう判断したのである。 (おれのペースに合致する者はいなかった。だから自然の勢いで単独行に追いやられていったのだ) 「市川さんも水野さんも喜んでいますよ。加藤文太郎といえば、わが国登山界の第一人者ですよ。その加藤さんと一緒に歩けるなどということは光栄です」 「そういっていたのか」 「いや、彼等は遠慮していましたが、私がそういってすすめたのです」  宮村は得意顔でいった。 「そう決ったならそうしよう」  加藤は、顔に現われようとする不満をかくすために、いそいで眼を地図の上に落した。  昭和十一年|元《がん》|旦《たん》はダイヤモンドの粉をふりまいたように、きらきらと輝く薄い氷霧の中に明けた。ほとんど風はなく、氷霧は空中に浮いたようであった。  二階の窓から、|磨《と》ぎすまされた白い槍の穂が見えた。飛雪は望見できない。頂上は風がないのだ。  七時ちょっと過ぎにドイツ人の一行が出発し、そのあとを、東京から来た三人組が追った。加藤、宮村、市川、水野の四人は、七時五十分に槍見温泉を出発した。  トップが宮村、ラストが加藤であった。四人はスキーを履いて、先行したシュプールのあとを追った。  槍見温泉から槍平までは急な道ではなかったが、樹林の中のおそるべく長い退屈な雪の道であった。白出沢で一行は先行していた二組のパーティーを追抜いた。そこからも、踏み跡はあったが、かなり古いものであった。  四人は滝谷で|河《か》|原《わら》におりた。河の上に氷が張り、その上を雪がおおっていた。樹林の中の道よりも、その方がはるかに歩きよかった。その辺まで来ると、二番目を歩いている市川の疲労が目立った。三番目の水野の足も遅くなった。加藤はしばしば先頭の宮村に声を掛けてゆっくり歩くようにいった。  加藤はパーティーを組むことのむずかしさを、山を始めて十数年も|経《た》ってから、はじめて教えられたような気がした。  宮村はラストの加藤にゆっくり行けといわれると、しばらくはそのとおりにしたが、すぐまた二番との間の距離をはなした。 「市川さん、|頑《がん》|張《ば》って下さいよ。槍平小屋はすぐそこですよ。こんなところでもたついていて、東京の|奴《やつ》|等《ら》や、ドイツ人に追抜かれたら、どうしようもありませんからね」  言葉はおだやかだったが、宮村が市川と水野に激励の|鞭《むち》をふっていることは明らかであった。 「ああ、……」  雪の上にルックザックを背負ったまま仰向けに倒れた市川は、そう答えただけで、たいした反応は示さなかった。水野も市川と並んで、なんといわれても、これ以上いそぐことはできませんという格好でいた。ふたりが黙りこむと、宮村もしょうがないとルックザックをおろして、からみで雪の上をせかせか歩き廻っていた。宮村は体力を持て余しているようだった。 「登山第一日目っていうのは疲れますね」  加藤は市川と水野にことばを掛けてやりながら、彼等と同じように、雪の上にひっくりかえって青空を見ていた。一点の雲もなくよく晴れた青空だった。このごろの季節としては|奇《き》|蹟《せき》のように晴れ渡った空を見つめていると、加藤は、その青空のどこかに吹雪の|唸《うな》り声を聞いたような気がした。 「明日は吹雪だな」  加藤は空に向って低い声でつぶやくようにいったが、静かだったから、その声は、他の三人にもはっきり聞えた。 「吹雪ですか、明日は」  宮村がいった。なぜ、そんなことがわかるのか、なにか大気の中にその兆候でも認めたのかというふうな|怪《け》|訝《げん》な顔で、加藤の視線を追うように、腰に手を当てて、空を|睨《にら》んだ。なんにもなかった。 「このごろの季節としては異常快晴だということが、明日は吹雪だというなによりも有力な手がかりさ」  加藤は自信あり気にいった。 「明日は吹雪か、なるほど」  宮村はいかにも感心したようにいうと、彼のルックザックに両手を通しながら、 「明日は吹雪か、どっこいしょ」  と懸声もろとも起き上って歩き出した。 「どれ、こんどはぼくがトップをやろう」  加藤は、自ら先頭に立った。市川と水野のペースに合わせるには、宮村より自分がトップに立った方がいいと思ってそうしたのだが、数十歩も行かないうちに、加藤は他人のペースに合わせることのむずかしさをしみじみと知った。 「明日は吹雪かそれいそげ」  最後尾の宮村が、その文句を歌うようにいいながら歩いていた。明日は吹雪か、まではよかったが、それいそげは、市川や水野にとってはひどく耳ざわりなことだろうと加藤は思った。別にいそぐことはなかった。この分でいくと、午後の二時には槍平小屋につく。はやいおつきである。  加藤はゆっくり歩いていた。眠いような一歩一歩の積み重ねであったが、どうやら、そのペースは市川と水野の体力にふさわしいものであるらしく、加藤がトップに立ってからの市川と水野はあまり休みたがらなかった。  午後の二時少し前に槍平の小屋についた。客はおらず、小屋番の清作がひとり戸口に立って一行の来るのを待っていた。 「おい飯だ、すぐ飯を|炊《た》いてくれ」  宮村は小屋番の清作に怒鳴るようにいうと、小屋の入口で、精も根もつきはてたように|坐《すわ》りこんでいる市川と水野に、 「なんです、このぐらいの山歩きでばてたんじゃあ、とても、槍ヶ岳まではいけませんよ」  といった。  市川と水野は小屋の中に入っても多くはしゃべらなかった。長々と寝そべって、荒けずりの天井板を|眺《なが》めながら、呼吸を整えているようであった。 「飯はすぐできるかね。腹がへってしょうがないんだ」  宮村が清作にいった。 「一時間はかかるだろうね」 「一時間、そんなには待てないね。なにか、食べるものはないかね」 「残り飯ならあるけれど、凍っているし、とても食べられるものじゃあないね」  宮村は|鍋《なべ》の底に残っている飯を|覗《のぞ》きこむと、 「それでいい、それで|雑炊《お じ や》を作ってくれ、その中に、|餅《もち》を焼いて入れれば、これ以上の|御《ご》|馳《ち》|走《そう》はない」  清作は、宮村たちがよほど腹が減っていると見たらしく、返事のかわりに、大きくうなずくと、その鍋の中に、水を入れて火にかけた。 「二十分もすると熱い雑炊ができるで……」  清作はさてといった顔で、|茶《ちゃ》|碗《わん》や|箸《はし》や、おかずの用意に立上った。 「ついでに、これをぶちこんでくれないか」  宮村は彼のルックザックから|鮭《さけ》|缶《かん》をひとつ出した。  加藤は囲炉裏端に坐って、|薪《まき》をくべながら、宮村という男は思いのほかせっかちな男だなと思った。腹は減ってはいるが、二十分、三十分を争うようなことはあるまい。そしてふと加藤は市川と水野の方を見て、宮村が食事をいそぐのは、あのふたりのためなのかもしれないと気がつくと、あんまりのんびりはしていられない気持になって、鍋の中の飯をしゃもじでかき|廻《まわ》したり、餅焼きの手伝いをしたりした。 「さあ、飯ができたぞ」  宮村が市川と水野に声を掛けたが、ふたりはちょっと|身体《か ら だ》を動かしただけだった。ふたりは眠っていた。 「起きて下さいよ、飯を食べて、もうひとふんばりしてもらわないといけませんからね」  宮村はふたりを起した。  雑炊は上手にできていた。熱い雑炊が腹の中に入ると、そのまま力となって、|四《し》|肢《し》の先々まで|応《こた》えて来そうな気がした。市川はやっと二杯食べただけで箸を置いた。 「どうしたのです市川さん、もういっぱい食べなさいよ。これから先がほんものの山ですよ。寒さに勝つには腹をこしらえて置くよりほかに手がないんです」  宮村は市川が置いた茶碗にもういっぱい雑炊をつぎこんだ。 「いまは、そう食べたくないんだ」 「そうかも知れませんが、今食べてもらわないと困るんです。夜になると寒さがこたえますからね」  その宮村の言葉で、加藤と市川と水野は同時に宮村の顔を見た。まさか宮村が、これから槍平を出て、|槍《やり》ヶ|岳《たけ》の肩の小屋へ行こうなどといい出すつもりはないだろうという顔だった。 「宮村君、まさかきみこれから登ろうっていうのではないだろうね」  加藤がいった。 「なにいっているんです加藤さん。明日は吹雪になるんですよ。そうと決ったら、どんなにおそくなっても、今日中に肩の小屋まで行くのが当り前じゃあないですか」  宮村は|叱《しか》りつけるような眼を加藤に向けてから、 「荷を軽くしましょう。一人、二日分の食糧を持っていけばなんとかなるでしょう」  加藤はその宮村のいい分に対して文句があった。たしかに宮村のいうとおりだったが、彼のいうとおりにできるのは、ここには加藤しかいなかった。市川と水野にそんなきついことをいってもだめだといおうとしていると、外で人声がした。  囲炉裏の|傍《そば》に突立ったままで、なにかいいたそうな顔をしていた小屋番の清作は、外へ出ていった。ドイツ人の一行が到着したのである。 「さあ、ここはあの人たちに譲って、おれたちは出発の準備だ」  宮村がいった。どこかに命令口調があった。  外人のパーティーが|靴《くつ》を脱いであがりこむと、すぐそのあとから、東京からのパーティーが上りこんで来た。 「いやあ驚きました。あなた方の足のはやいこと……、一生懸命追っても追いつけませんでした」  リーダーの森本が、宮村にいった。 「別にいそぐつもりじゃあないんですが、われわれにはまだ先がありますから」  宮村は汗びっしょりになって、荒い呼吸を吐いている森本にいった。 「まだ先といいますと」 「これから、槍の肩の小屋へ登るんです」 「肩の小屋へですか」  森本は眼を丸くしてそういうと、反射的に腕時計を見た。三時十五分前であった。冬山における行動停止の時間であった。男は時計の針と宮村の顔とを見比べていたが、その眼をやや離れたところで、腕組みをして立っている加藤文太郎の方へやると、ひどく|慌《あわ》てたように、視線をそむけた。 「さあ、出発の準備はいいですか」  宮村は市川と水野に向っていった。ふたりはまだ決心のつかないように、坐ったままだった。      6  槍平小屋の小屋番の清作は、この時間に槍ヶ岳へ出かけるという宮村のいい分が気に入らないらしく、なにかいいたそうな顔をして、宮村の方を見ていた。  宮村はルックザックの中の物を全部そこにひろげて、そのなかから、サブザックに一つ二つ拾いこむようにつまみこんでいた。  加藤は宮村と、そのとなりに、思案顔で坐っている二人を見比べながらしばらくは立ったままだったが、ふと思いついたように、靴をつっかけて外へ出ていった。槍平の小屋の前はちょっとした雪原になっていて、小屋を出て、自然に眼を前にあげ、やや右の方にずらしたところに滝谷が見えた。滝谷は|西《にし》|陽《び》を斜めに受けていた。光と影がまぶしく彼の眼を射た。滝谷の絶壁はところどころに黒い岩壁を見せてはいたが、全体として見れば、やはり滝谷は雪におおわれていた。  加藤の眼と滝谷とを結ぶ線上のあたりに、|鷹《たか》が一|羽《わ》|翔回《しょうかい》していた。  その景色はなんとなく春のあたたかさを思わせた。  加藤は滝谷の上限、北穂のいただきのあたりにしばらく眼をとめてから、さらに青空に眼を上げた。青空の奥の方に、かげろうのように、うごめくものがあった。ほんの感じだけのものであったが、加藤の眼は、それが、ずっと上層を吹いている風による気流の乱れであることを見逃してはいなかった。見ようによっては、あるかなしかのうすい雲が、強い西風に流されていくようにも見えた。  上空に強い季節風が吹き出したのだ。もしそうだとすれば、風は間もなく高度を下げて来て、山岳に当り、降雪にかわるのである。 「やはり明日の天気は悪くなる」  加藤には、それこそ間違いのないことに思われた。明日暴風雪になるとわかっていれば、今日中に無理してでも頂上に登ったほうが、有利かもしれない。頂上で吹雪をやりすごしながら機会を見ていて、これぞという日に|北《きた》|鎌《かま》|尾《お》|根《ね》をやって槍の肩の小屋に引き返すのも悪くはないと思った。だがそれをやるのは加藤と宮村の二人で、市川と水野は別だった。  加藤は槍平小屋に引き返した。  宮村健と清作が大きな声でやりあっていた。 「いくらなんでもいま時分に出発するということはねえだろう。いまごろ出て見ろ、|直《す》ぐ暗くなる。月はねえし、とにかく寒くて、どうにもこうにも動きが取れなくなる。やめたほうがいいね」  清作がいった。 「月がなくたって、ちゃんと懐中電灯は持っている。寒いの、暗いのといちいち気にしていたら冬山歩きなんかできゃあしない」  宮村は、清作に向っていっているのだが、明らかに、他のパーティーを意識しての発言のようであった。 「あなたがどうしても行くというならしょうがねえが、まあ、みんなの身体のことも考えてやることだな」  そのいい方の中には多分に皮肉がこめられていた。いささかそれは清作のいい過ぎのようでもあったが、清作にしてみると、疲労を顔に現わしている市川と水野をその山行に追いやりたくないようであった。  清作はそういいながらもなんらかの反応を求めようとするかのように、市川と水野、そして東京から来たパーティーに眼をやっていた。市川と水野は沈黙をつづけていた。槍見小屋からパーティーを組んで来たものの、宮村のいうとおりにしなければならないということはなかった。市川にしても水野にしても、神戸登山会のメンバーとしては宮村より古顔であり年齢も上だった。一緒にいくのはいやだといえばそれまでのことであったが、|彼《かれ》|等《ら》はその結論をいうまでに、もう少しなんとか、なごやかにこの結着がつかないものかと思っていた。二人は同時に加藤の方へ眼をやった。加藤ならこの宮村を制することができるだろうと思った。加藤の|貫《かん》|禄《ろく》を|以《もっ》て、ひとこと、宮村君それは少々無理ではないかといえば、宮村もいうことを聞くだろうと思った。  だが、加藤はひとこともいわなかった。加藤はむしろ迷惑そうな顔をして立っていた。加藤は宮村と交際はしていたが、市川と水野とははじめてであった。神戸登山会の会員でもなかった。余計な口出しはすべきではないと思っていた。加藤がそういう態度を取ると、この四人のパーティーのリーダーは一番若い宮村であるかのような格好に見えてくるし、加藤が沈黙を守っていることが宮村には、加藤が内心では宮村の意見に賛成しているように思われるのである。  東京から来たパーティーのリーダーの森本が、|囲《い》|炉《ろ》|裏《り》|端《ばた》から立上って、宮村の方へやって来た。彼は、山男の一員として、こういう場合、ひとこというべき権利があるかのような顔つきであった。森本と宮村の視線があった。宮村は森本の視線を一瞬はねのけると、突然市川と水野の前に仁王立ちになっていった。 「明日から天気が悪くなるんですよ。登るとすれば今日のうちです。こんなところで愚図っていたら、結局ここまでということになるんです。なんです。冬の槍ヶ岳をやろうっていうほどの者が、あと四、五時間|頑《がん》|張《ば》ることができないのですか」  宮村は腹いっぱいの声で怒鳴った。 「さっさと荷物を整理して下さい。食糧は各自二日分、サブザックに入れてすぐ出発です」  宮村の声は|威《い》|嚇《かく》とも取れるほどの決定的な響きを持っていた。森本は、宮村の声に圧倒された。宮村が大声で怒鳴ったひとつの理由が、森本の口を封ずるためであることがはっきりした以上、森本は近づくことはできなかった。それでも森本は未練がましく、ちらっと加藤の方へ眼をやり、そして、どうにでもなれという顔で囲炉裏端の方へ引き返して行った。  宮村の怒鳴り声は市川と水野を動かした。その声を聞くと、まず、水野が彼のルックザックに手を掛けた。あきらめた顔でルックザックの中からサブザックを引張り出して、それになにやかやとつめこもうとするのを、市川は責めるような眼で見つめていた。市川は自分の体力の限界を知っていた。とても、これ以上|従《つ》いていくことは無理だからこの小屋に残るつもりでいた。  水野の手つきは次第に軽快に動くようになった。宮村の|一《いっ》|喝《かつ》に対して不満らしい態度を示していた彼も、いざ登る準備をはじめると、もう迷わなかった。心が決るとむしろ積極的に手が動いた。  市川はひどくせつない気持にさせられた。自分ひとりだけ槍平小屋に残ることに抵抗を感じた。水野のサブザックを見ながら、あのぐらいならなんとか、背負って歩けるだろうという気がした。自制するものより前進したいという気が勝ってくると、身体のだるさに入れかわって、思ってもいなかった闘争心が|擡《たい》|頭《とう》してくるのが自分ながらおかしかった。  市川はルックザックの前に坐り直してその緒を解いた。  加藤は、異様な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》に包まれたまま、どこかに運ばれていこうとする自分を見つめていた。ひとことも口を|利《き》かず、なんの意思表示をすることもなく、四人のパーティーの一員として行動しなければならない自分が、自分ではないように思われた。 (二日分ばかりの食糧を持っていってどうしようというのだ。もし頂上で|吹《ふ》|雪《ぶ》かれたら|枕《まくら》を並べて餓死ということになる)  加藤はまず食糧のことから先に考えた。加藤の単独行の基礎となるものはかなり余裕を持った食糧と、そして燃料であった。いくら吹雪いても、彼独特の食糧と、そして、ときどき湯を沸かして飲むことのできる燃料があれば、おそれることはなかった。  加藤の今までの冬山の経験によれば、この場合は少なくとも一週間分の食糧と燃料を必要とした。そのつもりで用意して来ていたし、そのぐらいの常識は、加藤でなくても|誰《だれ》もが知っていることであり、宮村も市川も水野も、それぞれ大きなルックザックの中身のほとんどは十日分の食糧と燃料であった。  加藤は、なぜ宮村が、冬山登山の常識を破って二日分の食糧を持って出発すると言明したかについて考えた。もし彼が本気でそんなことをいったとすれば、正気の|沙《さ》|汰《た》ではない。おそらく宮村はなにか、それについての対策があるに違いない。 (まさか、宮村が、秋の間に槍へ登って、どこかに食糧を貯蔵して置いたのでもあるまい)  そんなことを考えながら加藤は、ふと、宮村が|洩《も》らした、 (なあに、いざとなったら、小屋の食糧をお借りするさ)  といったことを思い出した。  宮村は、十二月のはじめに、槍ヶ岳肩の小屋の持主の沖田氏に手紙を出しているから、その折、肩の小屋に食糧がかくしてあることを、沖田氏から聞いたのかもしれない。そうだとすれば二日分の食糧を持って登るということがあってもいいが、小屋にかくしてある食糧はあくまでも非常食であって、はじめっから、それを当てにして登ることは登山家として取るべきことではないように思われた。宮村がそんな男だとは思いたくなかった。  いったい、それまでしてなぜ登らなければならないのだろうか。加藤は宮村の気持をできるだけ理解してやろうと思った。  おそらく明日は吹雪になるだろう。そうすると、三、四日、あるいは五、六日待っても登れないかも知れない。そうなると、加藤は、神戸へ帰らねばならなくなる。宮村があくまでも加藤と二人で北鎌尾根を|狙《ねら》うとするならば、今日中に肩の小屋に着いて、そこで天気の合間を見て北鎌尾根へ出かけるという手を使うしかない。もしそうだとすれば、それは加藤と宮村だけのことであって、市川と水野には関係がないことである。 (宮村はなぜ市川と水野を一緒につれていこうとするのだろうか。水野も市川も、それを希望してもいないのに——それはおそらく宮村が自分を誇示したいため……)  加藤の顔色が暗くなった。 「加藤さん、なにを突っ立っているんです。用意をしないんですか」  宮村にそういわれて、加藤は、はっとした。 (そうだ、おれは宮村のために山へ来たのだ。宮村の痛んだ心をなぐさめるためと、彼の山行の最後を飾ってやるために出て来たのではなかったか)  加藤は、いま眼の前で、すでに市川と水野を意に従わせて、この季節としては、むしろ常識外の行動をやって見せようとする宮村に、しばらくは、その場を、彼の|檜舞台《ひのきぶたい》として置いてやろうと思い直した。 (宮村はおおぜいの前で、いいところを見せたいのだ)  加藤は宮村に対して、しばらくぶりで、あらゆる感情が浮き彫りされたような不可解な微笑を送ると、彼のルックザックの傍に|坐《すわ》って、 「二日分の食糧だな」  と宮村に聞いた。そのとき加藤は、リーダーの権利を完全に宮村に|委《ゆだ》ねていた。  三時五分に四人は|槍平《やりだいら》の小屋を出た。清作も、森本も、ドイツ人の一行も、小屋から見送りに出ては来なかった。槍平の小屋に残っている人たちのすべては、宮村と宮村に従ってこの小屋を出て行った者に対して悪感情を抱いていた。日本語をいくらか理解する一人のドイツ人によって、その小屋に起きたあらましのことが知らされると、一人のドイツ人は、首を|傾《かし》げ両手を大きくひろげて困ったことだという表情をした。一人のドイツ人は、いきなり腹を切る|真《ま》|似《ね》をした。宮村|等《ら》の行動を日本独特の自殺行為として表現したのだが、誰も笑わなかった。四人のドイツ人の中のたった一人の女性は、なんの意思表示もせずに、四人が出て行った方を黙って見送っていた。  |陽《ひ》が|錫杖岳《しゃくじょうだけ》の向う側にかくれると、四人が踏んでいる踏み跡のない雪道は急に固さを増していくようであった。  スキーを履いた四人は一列に並んだ。トップの宮村は暮れていく白銀の世界に向って、 「昭和|一《いち》|一《いち》年|一《いち》月|一《いち》日は静かに暮れていく」  と、いかにも宮村らしい|詠《えい》|嘆《たん》をこめた口調でいった。ふりかえると槍平はすでに夜の幕の中に入っていた。 (一月一日の夕べ——神戸で花子たちはなにをしているだろう)  加藤は思いを彼の家に走らせた。登志子を抱いて送りに来た花子の姿が浮び上る。彼が乗ったタクシーが走り出したときに、なにか叫んでいた花子の顔が見えた。花子と登志子とさわとが、楽しく正月を迎えている姿はどうしても浮び出てはこないのである。  槍平と槍ヶ岳肩の小屋との標高差は約千百メートルあった。槍平を少し登って、お花畑あたりから胸を突くような傾斜になる。  市川と水野の遅れが目立った。二人の足は夜を迎えるとともに、さらに遅くなった。二人が胸にさげた懐中電灯がぶらぶらするのを気にして、先を歩いていた宮村が引き返して、固定してやった。 「加藤さん、ぼくは一足先に行って、小屋の方の準備をしていますから、あとからゆっくり来て下さい」  宮村は市川と水野を加藤にまかせると、口笛を吹きながら先へ登っていった。しばらく宮村の懐中電灯のあかりが見えたが、間もなく消えた。おそろしく星が冷たく光る夜であった。  市川は死にそうに苦しかった。履いているスキーが鉛の玉でも引きずっているように重かった。呼吸も苦しいし、心臓が破裂しそうに、ふくれ上っていく気持だった。とても肩の小屋までは無理だと思った。  市川は十歩行っては休み、また十歩を動いては立ち止るといったような歩き方をしていた。どこをどう歩いているかわからなかった。歩くことに責任はあっても、行く先には責任が持てないほど、頭の中が熱かった。市川のあとにつづいている水野も、市川とほとんど同じであった。水野は、ただ市川のあとに従って歩くことだけで精いっぱいだった。  最後尾にいる加藤が、うしろから懐中電灯をさし出すようにして、前を歩いていった宮村の踏み跡を追っていた。市川が、その足跡からそれると注意した。市川はいきなり雪の中に坐りこむことがあった。そんなとき彼はどうにでもなれという気になった。雪の上にサブザックを背負ったまま、仰向けにひっくりかえることもあった。そのまま滑り出しても知るものかというような捨てぜりふを、彼の中のもう一人の彼が|囁《ささや》いていた。 (なんだってこんな苦しい目に合わねばならないのだ)  先へ行ってしまった宮村のことを考えると腹が立った。なにも宮村なんかのいうことを聞かないでもよかったのに、そんなことをふと思ったあとで、彼はここでほんとうに動けなくなったら、それこそ間違いなく凍死という結果になり、宮村の腹いっぱいの|嘲笑《ちょうしょう》を受けることになるだろうと思った。  市川はときどき畜生めということばを吐いた。宮村に対していっているつもりだった。市川が畜生めといい出すと、水野もまた小さい声でそれをいった。畜生めが偶然のようにかち合ったりすると、疲労のなかに急に力を感ずることがあった。  十歩行っては休むのが、五歩行っては休むようになり、ついには、もう一歩も歩けそうもなくなって、雪の上にのたりこむと、加藤が、|傍《そば》へ来て、 「だいぶ来たなあ、もうすぐそこが|飛《ひ》|騨《だ》|乗《のっ》|越《こし》だ」  などといった。市川や水野にいうのではなく、加藤のひとりごとのようであった。  もうすぐだといわれると、市川は、最後の力をふりしぼって登ろうという気にもなる。それにしても、加藤がひとことも、激励のことばを掛けないのが不思議だった。さあ、もう少しだ頑張ろうというようなこともいわずに、ふたりがぶっ倒れると、その二人の傍に腰をおろして、二人が立上るまで、じっとしているのは、二人にとって、なにか人間の形をした送り|狼《おおかみ》にでもつけられているような奇妙な気持だった。  加藤はわざとそうしたのではなかった。彼はパーティーを組んで登山したことがないから、こういう場合どうしたらいいのか知らなかった。加藤は、付添いの義務以上のことはしようとしなかったのである。が、結果においては、加藤のこの放任主義がふたりにとってはよかったのである。もし加藤が先行して、宮村が、付添ったならば、頑張れ頑張れを連発して、かえって彼等を疲労|困《こん》|憊《ぱい》させ、頂上へ達することができないばかりか、もっとたいへんなことになったのかもしれない。  市川がどうにも動けなくなって、ただもうしばらく、ここで眼をつぶっていたいという、危険な欲望を感じたとき、加藤は、仰向けに倒れている市川の口の中にレモンの|汁《しる》をそそぎこんだ。それは強烈なにおいと酸味を持っているというだけで、彼の疲労を|恢《かい》|復《ふく》させる働きはしなかったが、加藤が、積極的に介抱をしようとしている態度が市川に力を与えた。 「レモンの味さえわかれば、まだまだ歩ける」  加藤は市川と水野に等分にレモンの汁を飲ませてからいった。  不思議なほど風はなかったが、時折思い出したように風が起って、彼等の疲れ切った皮膚をむち打った。 「どのへんでしょうね、ここは」  市川は前に立ちふさがる黒い壁に向っていった。  いくら登っても地形の変化を感じないのが彼をいらだたせた。 「飛騨乗越のすぐ下だ」  加藤は前と同じことをいった。市川と水野は、ふらふらと立上って、また歩き出した。  雪の面が固くなり、スキーでは無理なような地形になったところまで来ると、加藤は二人にアイゼンに履きかえるようにいった。 「ひとりずつやらないとあぶない」  加藤は、まず市川にアイゼンを履かせ、彼のスキーを雪の中に突きさしてから、水野にアイゼンを履かせた。半ばは加藤が手伝ってやった。二人の履きかえが終ってから、加藤自身も手ばやくアイゼンに履きかえてから、 「これからは注意しないと危ないぞ」  と警告したが、二人は聞えないようであった。  加藤は二人に懐中電灯を当ててから、このまま二人を肩の小屋まで引張っていくことの困難を察したのか、ピッケルで雪をけずって、安全な場所に二人を坐らせると、すぐその傍で、サブザックの中からアルコールランプとコッフェルを出して、水筒の水を沸かしてその中に角砂糖を入れ、砂糖湯を作って二人に与えた。雪の急傾斜面をピッケルでけずり取った調理台で作られたその特効薬は、市川と水野に活力を与えた。  二人は加藤の手取り早いその処置に感謝していたが、別にありがとうとはいわなかった。なにかすばらしい手品でも見ているような気持で、アルコールランプの赤い炎を|眺《なが》め、そして熱い砂糖湯が、胃の底を|刺《し》|戟《げき》したとき、おれはまだ死人ではないのだと思った。  それからの加藤は前と違った。 「足元に気をつけろ」  とか、ゆっくり歩けとか怒鳴った。雪が吹きとばされて、|蒼氷《そうひょう》が顔を出しているところへ来ると、加藤が先に立って、ステップを切った。その辺まで来ると宮村のアイゼンの跡を見失ったが、雪の状態と、|彼《かれ》|等《ら》の前に立つ黒い壁の大きさで、|稜線《りょうせん》に近づいていることは明らかであった。もうすぐそこだと加藤にいわれなくとも、彼等自身で位置を判定できるところまで来ていたのである。もし彼等が、しっかりしていたならば、立ち止って周囲を|見《み》|廻《まわ》し、星空が急に広くなったことに気がつき、彼等は暗い谷から、明るい稜線のすぐ下まで来ていることに気がつくはずだったが、彼等には周囲を見る余裕すらなかった。  風が出て来た。寒気が増した。二人は最後の気力をふりしぼって歩いていた。市川も水野も、苦しみはもう感じてはいなかった。無意識に足を出しているだけだったが、それでも、危険に対しての本能的な警戒まで捨ててしまってはいなかった。彼等は加藤の警戒の声を聞くたびに、ピッケルを持ち直した。  市川は、ふわりと軽い足の感覚に、ためらったように立ち止って、足元から上部に眼をやった。それまで、頑強に彼等の前をさえ切っていた黒い壁がなくなって、そこには星があった。手を伸ばせばいくらでも|掴《つか》み取りできそうなところに輝いていた。 「稜線だ、稜線に出たのだ」  市川は叫んだが、声にはならなかった。つづいて、水野が稜線に立ち、水野もまた苦しい呼吸の下から、なにかわめき散らしていた。  そこからは加藤が先に立った。加藤は、懐中電灯を消してしばらく、星の下に立っていては、またゆっくり歩き出した。  一面に宝石をばらまいたような大空の中に槍ヶ岳の格好をした黒いものがあった。そのように大槍は星空の中にはっきりと突出して見えていた。おそらく、その限りない星がなければ大槍は発見できなかっただろうと思った。  大槍が見えると、地形ははっきりした。それに、いままでと違って稜線に出ると星明りでかなり地物を判定できた。稜線を踏みはずすということはなかった。  加藤は大槍の格好をしつっこいほど見ていたが、やがて大槍に背を向けて歩き出した。肩の小屋は、積雪の中に、ちょっとした隆起を作っていた。うっかりしているとそこに小屋があるかどうかわからなかった。雪の上にほんの少しばかり屋根を出しているに過ぎなかった。  ピッケルで雪を掘ったあとがあった。  槍ヶ岳寄りの二階の窓が掘り出されて、そこが開いていた。  小屋の中で懐中電灯が動いていた。宮村の声が聞えた。宮村が中から、市川の|身体《か ら だ》を引きずりこむようにして、小屋の中に入れた。  市川は小屋の中にぶっ倒れた。小屋というよりも、氷室の中へ倒れこんだ感じだった。宮村の懐中電灯や加藤の懐中電灯の光のもとに照らし出されるその部屋は、雪と氷でいっぱいだった。加藤が一番最後に窓から入りこんだ。二階は氷室であったが、一階にはそれほど雪が入りこんではいなかった。  市川はもうなんの遠慮もなくそこに倒れこんだ。アイゼンを|誰《だれ》が取ってくれているのか、誰が|靴《くつ》をぬがしてくれているのかわからずに眼をつぶっていた。助かったということだけが、身に|滲《し》みた。  水野は、自分でアイゼンを取り、靴を脱ぐだけの余裕をまだ持っていた。彼は水筒の水を飲んでからひっくりかえって、すぐエビのように丸くなった。  宮村は、肩の小屋を雪の中から掘り出すのに意外に時間がかかったことを加藤にしゃべっていた。 「スコップを持って来れば、こんな苦労をしないで済んだのに、……まったくばかばかしいほど時間がかかる仕事だった」  宮村が二階の窓からやっと入りこむことができたころ、あとの三人が到着したのであった。 「とにかく火を|焚《た》いて飯にしなけりゃあ、腹がへってしょうがない」  宮村はそういってまわりを見廻した。部屋の中ほどにストーブがあった。煙突ははずしてあった。小屋の中を探すと、カンナくずや二束ほどの|薪《まき》があった。  宮村が火を焚きつけたが、紙だけ燃えて薪には火はつかなかった。薪は雪に|濡《ぬ》れていた。加藤がかわった。彼はサブザックの中から新聞紙を引張り出して丸めて中に入れ、そのまわりに細い木片を立てかけようとしたが、適当のものがないから、薪割を探した。どこを探しても薪割は見つからなかった。ピッケルを薪割がわりと一度は思ったが、そんな無法のことはできなかった。水野が、登山ナイフを持っていたから、それを使ってどうやらひとつかみほどの、たきつけを作って火をつけた。火は新聞紙に燃えうつり、たきつけの薪を半分ほどこがしたところで消えた。|濛《もう》|々《もう》と煙が上った。  宮村と加藤は一時間ほど煙と戦ったが、ついに火はつかなかった。煙が部屋に充満して、呼吸困難になった。彼等は、ストーブに火をたきつけることはあきらめて、床に|這《は》って、煙の退散するのを待った。通気孔は二階の窓ひとつであった。  夜半になってから、ようやく煙がなくなったところで、宮村と加藤は携帯用石油コンロとアルコールバーナーを使って湯を沸かし|粥《かゆ》を|炊《た》いた。市川は死んだように眠っていて呼んでも起きなかった。|布《ふ》|団《とん》はむしろに包んで|梁《はり》にぶらさげてあった。それをおろして、着て寝ると寒いことはなかった。  加藤はなかなか眠りつけなかった。肉体的疲労で眠れないのではなく、今日一日の不思議な山行に|昂《こう》|奮《ふん》して眠れないのであった。単独行しかやったことのない加藤にとって、彼自身の|他《ほか》に二人の同行者の責任を持ったことでひどく神経が疲れた。加藤は多くの山の本を読んでいた。山における友情については、ほとんど美化され、それはあたかも人生を山という世界に縮図したように、あざやかに書いたものばかりであった。パーティーを組むということは、美徳を山へ持ちこもうとする行為の前提であるかのごとく書いたものもあった。しかし、生死の境を歩かせるほど苦しめる者と苦しめられる者とが同居するパーティーが、美徳となんのかかわりがあるのであろうか。加藤は、宮村の取った態度がどうしても納得いかなかった。いいところを見せようとしたにしては、それはあまりにも常軌を逸した行為に思われた。いうなれば|気狂《き ち が》い|沙《ざ》|汰《た》であった。市川と水野が無事でいたことも、運がよかったという以外になかった。もし頂上近くになって風が出たら、——たとえ秒速十五メートルの風が出ても、市川と水野はそれに耐えられなかったと思われた。  小屋の中はまったく暗黒であって、寝息しか聞えなかったが、そのひとつの寝息を吐いている宮村について、加藤はさらに多くのことを考えねばならなかった。 (宮村は山へ来たら別人になった)  それは加藤に対して、第三者がいうことと同じであった。下界においては、むしろ|華《きゃ》|奢《しゃ》に見える身体つきをしている加藤が、たったひとりで、吹雪の北アルプスを縦走するほどの男だとは誰も想像できないように、あれほど親しくしていたのにもかかわらず、加藤は、下界における宮村だけを知っていて、山における宮村を知らなかったのである。 (人間は下界と山では別な人間になるものであろうか)  加藤は、まず自分を分析した。少なくとも自分自身は山と下界では根本的には違ってはいないと思いたかった。 (宮村については注意しなければならない)  山へ入ってからの宮村には、園子に裏切られて、めそめそしていた宮村の暗い|翳《かげ》はどこにもなかった。むしろ、王者のようにふるまっている宮村は加藤の上に君臨しようとさえしているように見えるのである。  加藤は、同行者の宮村に対して、そのときはじめて、ごくわずかな不信の念と、それ以上強く、この山行から早々と退却して、神戸の花子と登志子のところへ帰りたいと思った。  苦しそうに、うめく声が交互にした。市川と水野は、布団の中でまだ苦悩の登山をつづけていた。      7  昭和十一年一月二日は猛烈な吹雪に明けた。  雪に埋もれた肩の小屋の中にいても、外の吹雪の音で話ができないほどであった。きのうの夜、雪をかきわけてやっと開けた二階の窓の|隙《すき》|間《ま》から雪が吹きこんで階下に寝ている四人の顔にふりかかった。  加藤と宮村が交互に起きて階段を登って戸締りに行ったが、眼に見えないような隙間から吹きこむ雪を防ぐことはできなかった。 「なあにすぐ吹きこまなくなるさ」  宮村は間もなく雪の中に小屋全体が埋没してしまうことを予想しているようであった。  市川と水野は布団の中にもぐりこんだままだった。時々眼を開けてまわりを見ては、すぐまた眠りこんだ。ゆうべの疲労がまだ|恢《かい》|復《ふく》していないのである。  市川は明るみの方へ薄眼を開けて見て、たしかに肩の小屋に寝ているのだと自分にいい聞かせてまた眼をつぶった。それからしばらく、彼は、底なし沼に足を取られてもがき苦しみつづけているような眠りをつづけた。安らかにふかくゆっくりと呼吸をしながら眠っているのではなく、苦しみながらも、ゆうべからの惰性で眠っているような気持だった。  加藤と宮村が、雪の吹きこむ窓のあたりでなにやらやっていることはうすうす知っていたが、手伝わねばならないという気は起らなかった。市川の心の底には、宮村に対して|未《いま》だに怒りに近いものを持ちつづけていた。  なにも、あれほどひどい目に合わせないでもよかったのに、生きてこの小屋にたどりつけたからいいものの、ゆうべのあの状態においては、生と死の確率は半々だった。あれほどの危険をおかして山に登ることがどこにあるだろうか、ああいうことがアルピニズムなら、おれはいますぐそれを捨ててもいいのだ——眠りから、覚めかけた市川の頭の中ではそんな理屈がこねられていた。  感じでは朝だったが、小屋の中は真暗だった。二階の方からさしこんで来る明るさも、階下にいる四人の顔を見分けることはできなかった。 「もう十時だ」  宮村が加藤にいう声が聞えた。それで市川は、少なくとも十時間以上は眠ったのだなと思った。空腹を感じた。起きて、その用意をしなければと思いながら、起きるほどの元気もなかった。空腹より疲労の方が勝っていたし、こんなひどい目に合わせた宮村に、食事の世話ぐらいやらせてもいいのだと考えていた。 「雪の吹きこみは少なくなったが、なにか|呼《い》|吸《き》がつまりそうな気がする。やはりいくらか窓はあけて置いた方がいいだろうな」  加藤のひとりごとが聞えた。彼がごとごとと階段を登っていって、吹きこんだ雪をなにかでさらって、窓からほうり出しているらしい音がした。  二階の窓を開けるとまた雪が階下まで吹きこんで来て、寝ている市川と水野の顔に降りかかった。ふたりは起き上った。 「飯にしようかな」  ふたりが眼を覚ましたのを見て、宮村はそういうと、いいんです、飯のできるまで寝ていてもいいのですよと、ふたりをいたわった。ふたりはまた布団の中にもぐった。いままで気がつかなかった布団のかびの|臭《にお》いが鼻孔をついた。  宮村が携帯用石油コンロで粥を炊いた。 「|餅《もち》を持ってくればよかったな」  宮村がそんなことをいった。市川は布団の中で、食糧は軽く二日分しかないのだと思った。この吹雪が一週間もつづいたらいったいどうしたらいいだろうと考えていた。 「さあ、飯ができたから起きて下さい」  宮村は市川と水野にそれまでになく丁寧な言葉をかけた。等分に盛り分けた|味《み》|噌《そ》|粥《がゆ》の中にネギが一片ずつ浮いていた。  市川と水野は、重病人が床から起き上るように、大儀そうに身を起してコッフェルをかこんだ。粥を盛り分けて、からになったコッフェルの中には雪が入れられていた。アルコールランプの火がコッフェルの下から、四人の|膝《ひざ》のあたりまで照らし出していた。四人の顔つきまでは見えないけれど、誰が誰だかわかる程度の明るさだった。  市川はネギを|噛《か》んだとき、ひどくわびしい気がした。別にどうということはないのだが、ここでこうして、味噌粥の上に乗った一片のネギを口に入れることが、けっして楽しいことには感じられなかったのだ。  市川はとまどったようにネギを口に入れたままで、彼の横にいる加藤の横顔を見た。加藤も、やはりホークの先にネギをつきさしたまま、なにか考えこんでいたのである。二階からさしこんで来る光が、加藤のホークの先にあるネギの白さをうつし出したのであって、加藤の表情は見えなかったが、市川は、加藤がひどく|淋《さび》しそうな顔で、その一片のネギを見つめているように思えてならなかった。 「一人前、一杯の粥じゃあ、腹のたしにはなりゃあしない」  宮村はさっさと粥を始末してしまうと、各自の持って来た食糧を集めて入れたサブザックを|猫《ねこ》の子の首玉をつかまえるように|吊《つ》り下げて、他の三人の前でぶらぶらふりながらいった。 「これだけじゃあしょうがないから、菓子を食べることにしようじゃあないか」  誰にも異存はなかったが、菓子を食べればそれだけ後の食糧が苦しくなることを心配していた。  宮村はサブザックの中を手で探って、茶筒をひとつ引張り出した。彼はそのふたを取って懐中電灯を当てて、 「この甘納豆いただきますよ、加藤さん」  と一応それを持って来た加藤に許可を得ると、手づかみで分配をはじめた。  加藤は両手を出して、その配給を受けたとき、ひどく倒錯した気持におそわれた。甘納豆は彼の常備食糧であった。茶筒に入れて来たのは便宜上そうしたまでのことで、その甘納豆は、彼が一歩山へ踏み出すときには必ず彼の両方のポケットにおさまっているはずであった。ポケットに手を入れればいつだって甘納豆はあった。そうするために持って来たその甘納豆が、こんなふうにして分配されていくのを見ることは、なんともおかしなことに思われた。 (われわれはパーティーを組んでいるのだ)  加藤は自分の心にそういいきかせた。パーティーを組んだのだから食糧は出し合って共同管理するのは当り前である。彼はこういうことを本で読んだし、話にも聞いていた。だが彼の経験にはないことだった。  自分の食べる食糧は自分で持って歩くことに徹していた彼にとっては、この小屋で、誰かが持って来た材料で作った味噌粥を食べ、一片のネギをかじったときの妙にちぐはぐな気持より、さらにおかしな気持で、分配された甘納豆をひとつぶずつ口に入れていた。 「加藤さん、ちょっとそこまで|偵《てい》|察《さつ》に行って来ましょうか」  宮村は甘納豆を食べ終るとすぐいった。 「ちょっとそこまで?」  加藤は、宮村のいおうとしている真意が理解できなかった。外は吹雪である。歩ける状態ではない。冗談をいっているのだろうと思った。 「|大《おお》|槍《やり》の穂を越えて、|北《きた》|鎌《かま》|尾《お》|根《ね》のおり口まで行って来ましょう。腹へらしにちょうどいいですよ」  冗談をいっているのだと思ったから加藤は、別に答える必要もないように、微笑を浮べたままで、最後の甘納豆のひとつぶを噛んでいた。  宮村の懐中電灯の光がさっと加藤の顔を|撫《な》でた。 「なぜ笑うんです加藤さん。ぼくとふたりで行くのはいやだっていうんですか」  宮村はいくらか怒りを含んだ声でいった。加藤の微笑を宮村は誤解したのである。多くの上役や同僚や友人や未知の人がその不可解な微笑について誤解したように宮村もまたそれを誤解したのであった。  加藤は真顔になった。こうしてももう遅いのだということを加藤はよく知っていた。なんの気もなく|洩《も》らす彼の微笑が、多くの誤解を招くものであることを知っていた加藤は、つとめて、そのような|曖《あい》|昧《まい》な笑い方はしないことにしていたのだが、なにかの|拍子《ひょうし》にふと出てしまったのだ。 (この微笑が、たいして意味のないもので、いうならば、照れかくしの微笑であることを知っているのは花子と外山三郎だけである。その花子も、結婚した当時はこの微笑をひどく気にかけたものだ)  加藤はそんなことを考えていた。 「行くんですか、行かないんですか」  宮村がいった。  市川と水野が、宮村と加藤のやり取りを、興味を持って見ていることを宮村は充分に意識しているようであった。 「まさか、加藤さん、このぐらいの吹雪をおそれているのではないでしょうね」 「おそれているよ。吹雪を|衝《つ》いて槍へ登るなどということはあまり|讃《ほ》められたことではない」 「そうですか、それではぼくひとりで登ります。パーティーを組んでここまでやって来ておいて、いまさら加藤さんがそんなことをいうとは思ってもいませんでした」 「宮村君、風速は三十メートル近くあるぞ」 「こわいんですね、加藤さん。単独行の加藤文太郎といわれたあなたが、不死身の加藤といわれたあなたが、吹雪をおそれているんですね」  宮村は笑い出した。ひどく空虚な笑いであるとともに、いささか悲壮がかった笑いでもあった。 「宮村君、無理じゃあないかね。なにもそうあわてずとも、山は逃げはしない」  市川が口を出した。市川は神戸登山会の幹部級であり、宮村にそのぐらいのことはいえる立場にあった。 「あなたには関係のないことです。リーダーでもないあなたが、そんな出しゃばったことはいってもらいたくありませんね」  宮村は市川をぴしゃりとやりこめると、 「加藤さん、吹雪はそれほどではないと思いますから、とにかくそこまで、出て見ませんか、なにもここまで来て|喧《けん》|嘩《か》をすることはないでしょう」  宮村はいくらかおだやかな声でいった。宮村自身で、喧嘩をふっかけるようなことをいっておきながら、喧嘩をすることはないでしょうというのは、おかしかった。加藤は思わず吹き出しそうになるのをこらえた。  宮村はリーダーシップを取って見せたいのだなと加藤は思った。市川や水野のいる前で、加藤文太郎でさえ、こわがるような暴風雪の槍ヶ岳へ自らリーダーとなって、加藤を引張って登るところを|彼《かれ》|等《ら》に見せてやりたいのだ。  宮村は答えのない加藤をそのままにして、支度をはじめた。加藤が同行しないのが不平らしく、なにかぶつぶついっていた。宮村は完全な装備を身につけてピッケルを握った。 「宮村君、ほんとうに行くつもりなのか」  加藤は、きつい言葉で出ていこうとする宮村をおさえつけた。宮村がふりかえって、加藤になにかいおうとしたのを、さえ切って、加藤はさらに大声でいった。 「待て、おれも一緒に行く」  加藤は吹雪の中に、宮村をひとりで出してやるわけにはいかなかった。ひとりで出してやったら、宮村は二度とこの小屋へは帰って来ないのではないかと思われた。 (宮村は|昂《こう》|奮《ふん》している。|誰《だれ》でも山へ来ると、多少なりとも昂奮するものだが、彼の場合、それがいささか強すぎるまでのことだ)  加藤は身支度をととのえた。  二階の窓のところまで、市川と水野がふたりを送りに出て来た。  窓をあけると雪が吹きこんで来て、四人の顔を打った。  宮村は|雪眼鏡《ゴーグル》を|眼《め》に当てると、足の方を先にして窓から出ていった。加藤はその宮村にザイルの束をわたしてやってから|雪眼鏡《ゴーグル》をつけた。白い世界が|茶褐色《ちゃかっしょく》に変った。吹雪の流れが川の流れのように見えた。  加藤は窓を出たところで、市川と水野に向って手をふった。ふたりの顔は、吹雪をまともに受けて、くしゃくしゃにゆがんで見えていた。  外へ出て見ると風速はそれほど強くはなかった。三十メートルはなかった。背を低くして歩けそうな風速であった。突風性の風ではないことが、ふたりにとっては幸いなことであった。風は斜め左うしろからだった。二十メートルと加藤は判断した。  吹雪でまったく視界がとざされたなかでふたりはザイルを組んだ。  宮村はトップを歩いていた。いかにも自信に満ちた歩き方であった。ときどき吹雪の|渦《うず》がふたりをめくらにしても、宮村は前進を停止しようとしなかった。  肩の小屋から大槍の取付点までは、百メートルあるかなしかの距離であったが、吹雪の中では、二、三百メートルもあるように思われた。槍の穂の取付点のあたりに来て、宮村は、アイゼンの|爪《つめ》にはさまっている雪をピッケルの先で落した。加藤もそれにならった。 「夏山ルートを登りますよ」  宮村が加藤の耳もとでいった。ルートを指定したときに、このふたりのパーティーの主導権は、宮村が握ったも同然であった。  槍の穂は雪と氷におおわれていたが、夏山登山ルートははっきりしていた。槍の穂の根元の吹きだまりの部分を越えて、いよいよ槍の穂にかかると、岩壁を|掩《おお》っている氷雪の|被《ひ》|膜《まく》が、アイゼンを受止めた。  加藤にとって厳寒の槍の穂の経験ははじめてではなかったが、ザイルを組んで登ることは今度がはじめてであった。加藤の前に延びているザイルと、そこにいる宮村の存在がなにかわずらわしく感じられた。傾斜が急になると、宮村は加藤をその場にとどめて、ステップを切りながら先行して、適当なところに、ハーケンを打ちこみ、カラビナをかけザイルを通して、自己確保してから、ザイルを肩がらみの姿勢でかまえて加藤が登って来るのを待った。  ザイルを使ってのこういう登山を、加藤が知らないことはなかった。何年か前、六甲山の岩場で、藤沢久造|等《ら》がロッククライミングをやっているのを見たことがあったが、その後単独行しかやったことのない彼にとっては、はじめてと同様であった。  ザイルが無くても登れる自信があるのに、ザイルを組むことは、なにかにつけて面倒だった。相手が登っている間、待っているとき、手足の先が凍傷でも起しそうに冷たかった。頂上に近くなるほど風が強くなった。突風性の風も混っていた。  加藤は、そこまで来る間に宮村の岩壁における身のこなし方が、思いの|他《ほか》しっかりしていることで安心した。力量不明な男とザイルを結んだという不安は消えた。ザイルの扱い方も、ハーケンの打ち方も、ピッケルで氷をカッティングするやり方も上手だった。ただひとつ加藤にとって心配なのは、宮村が、それらの技術を加藤に見せよう、見せようとしていることであった。  宮村にとって、加藤のような登山家になることが目標であったとして、今その目標の前で、見事にそれを乗り越えたところを見せようとしているのだとすれば、それこそおろかな限りだと思った。  加藤は黙ってついていった。宮村が、優位を誇示したいならば、そうさせておこうと思った。加藤は宮村には逆らわなかった。それで、宮村が満足するならば、それでよかった。宮村が今日を境にさっぱりした気持で第二の人生に出発してくれるならば、それでいいではないかと思っていた。  加藤はけっして宮村の|尻《けつ》を押すような登り方はしなかった。宮村の合図通りに従順に|身《から》|体《だ》を動かしていった。ふたりは頂上に到着した。  槍ヶ岳の頂上には立ってはおられないほどの強風が吹いていた。ふたりは|這《は》ったままだった。岩と岩の間に氷がはりつめていた。 「北鎌尾根へおりるルートを偵察して帰ろう」  宮村が加藤の耳元でいった。 「風が強いから今日はやめろ」  だが、加藤の忠告に宮村は首をふった。槍ヶ岳頂上の|祠《ほこら》に風が当って鳴っていた。その裏を|廻《まわ》るようにして、宮村は北鎌尾根へおりていった。加藤が、ザイルで確保した。予想以上に悪い場所であった。岩壁に密着した氷が北鎌尾根への下山をこばんでいるようであった。風のない日に、一歩一歩、ステップを切っておりて行くべきところであった。  二十メートルのザイルいっぱいおりたところで、さすがの宮村もそれ以上おりることをあきらめた。 「風さえなけりゃあたいしたことはない」  引きかえして来た宮村は、加藤の耳元でいった。  槍の穂の下山は、登山よりもはるかに危険だったが、宮村はこの下山においてもうまくザイルを使った。  加藤は、宮村のザイルの先にあやつられている|猿《さる》を想像して苦笑した。たしかにザイルに結ばれて、一人が行動中、一人が相手の身の安全を守るという方法は合理的であり、単独|登《とう》|攀《はん》よりも安全性があることを加藤は認めた。 (だがしかし、それはあくまでも、他人の力を頼っての登山であり、ひとりの登山ではない)  単独行に徹して来た加藤にとっては、そこになにか割り切れないものを感ぜずにはいられなかった。 「登山とはなんだ」  彼は槍の穂の根元についたとき、そのようにつぶやいた。  市川と水野は吹雪の中を|槍《やり》ヶ|岳《たけ》登頂ばかりではなく、北鎌尾根のおり口の偵察までやって来た二人の山男を小屋の中へ迎え入れると、|魔法瓶《テルモス》の中に入れてあった湯をすすめた。 「大変だったでしょう」  と水野が宮村に話しかけた。 「なあにたいしたことはないさ。おれたちにとっては、今日の吹雪なんて吹雪の中には入らないんだ」  おれたちといったとき、宮村はちらっと加藤の方を見た。おれたちとはいったが、おれにとってはといいたいような顔であった。そして宮村は、いささか|饒舌《じょうぜつ》にも聞えるように、市川と水野に向って、厳冬の槍の穂がどうであったかを話した。たいしたことはないという言葉がやたらに出た。ザイルさえ組んでいれば大丈夫だとか、トップをやったと自慢できるほどのところではないなどと、自らがトップをやったことを言外にほのめかしていた。たしかに宮村は自己を顕示しようとしていたが、それが、さほどにいやらしく感じないのは、宮村がその日の山行の成功を、いかにもうれしそうに話すところにあった。加藤とザイルを組み、しかも宮村がリードしていたということが話の中にちらちらして、それに対して、市川と水野のごく簡単な|讃《さん》|辞《じ》に対しても大げさに、いやそれほどでもないですよと否定するあたりは、なんとなく子供っぽく見えないでもなかった。  加藤はあまり発言しなかった。ときどき、宮村の話に合わせてやるだけで、積極的になにか話そうという様子は見せなかった。  加藤は|膝《ひざ》をかかえて、外の風の音を気にしているようであった。  夕食は昼食と同じように、また|粥《かゆ》であった。食事のあとに甘納豆が均等に配分された。ローソクの火が部屋の中を明るくした。 「あすになると吹雪は|止《や》むさ」  と宮村は、粥を食べているときも、甘納豆を食べているときも同じことをいった。 「明日の朝、ぼくが市川さんと水野さんを案内して槍の頂上をやろう。充分に余裕を取っても三時間もあればいいだろう。市川さんと水野さんはその足で槍平小屋へおりる。ぼくと加藤さんは、それから、北鎌尾根まで行って来る。明日中に下山するのが無理だったら、明後日の朝早く槍平小屋へおりる。どっちみち食糧がないのだから、そうするよりしょうがないだろう」  宮村がいった。  市川と水野は顔を見合せた。きのうと同じように、しごかれるならばごめんだという顔だった。宮村はその顔色を察すると、 「大丈夫ですよ。岩場ではけっして無理はしません。ぼくだって死ぬのはいやですからね」  といって笑った。  加藤は別に口出しをすることはないから黙っていた。市川も水野も宮村と同じ山岳会であるし、市川と水野をつれて槍の頂上に登るには、ザイルの使い方に|馴《な》れている宮村の方がいいに決っていた。そこまではいいが、気になるのは、その後の北鎌尾根往復だった。それは時間的にかなり苦しいことになるし、問題は天候だった。風が強ければ、非常にむずかしいことになる。  それに食糧のことが心配だった。この小屋に宮村が食糧を置いてもないし、そのことで小屋の主人との交渉がなかったことがはっきりしたいまとなっては、登山より下山のことを先に考えるべきである。  加藤は、おそらく明日の昼食には、底をついてしまうだろう、彼等の食糧のことを思いながら、それまでにない暗い気持で、風の吹きこむ|隙《すき》|間《ま》もないのに、揺れつづけるローソクの|灯《ひ》を見詰めていた。  |布《ふ》|団《とん》の中に入っても、すぐには寝つかれなかった。充分に着ているから寒いことはないし、腹が減っているわけでもない。  加藤が眠られないのは、そのようなことではなかった。なにかつかみどころのない大きな不安が彼をとらえて眠らせないのであった。  それがパーティーを組んでいることの不安であることは明らかだった。しかも、いよいよ明日、宮村とふたりで|北《きた》|鎌《かま》|尾《お》|根《ね》をやるということの不安が、加藤の神経を|刺《し》|戟《げき》しているのである。  そのことは、なにも今さらあらためて苦にすることではなかった。単独行しかやったことのない彼が、はじめて選んだパーティーの相手の宮村の実力は、今日の山行においてためされ、不安を感じさせる相手でないことは立証されていた。岩場においては宮村の方がむしろ加藤よりすぐれた技術を持っていた。  それではいったいなにが不安なのであろうか。  まず第一に考えられるのは、宮村の変り方であった。宮村を誘惑し、宮村を|棄《す》てて満州に去った園子は、宮村のことを|可愛《か わ い》い登山家といった。それは宮村に匹敵する表現であった。加藤から見ても、宮村はまさしく可愛い登山家であった。失恋の傷跡を登山によって|癒《いや》そうとしたり、登山家加藤文太郎に追いつくために、加藤の山歴を丹念に踏みつづけるあたりは子供じみていた。登山だけではなく、神戸の町で会ったときの話のやり取りにしても、宮村は可愛い登山家の域を脱してはいなかった。  加藤が宮村と山に来たのは、宮村の山における技術を信頼して来たのではなかった。宮村を山に狂奔させた原因が園子にあり、宮村に園子を紹介したのが加藤であるという責任感と、いつまで|経《た》っても、園子を忘れることのできない宮村の弱さに同情したのである。  加藤は頭の中で適当な言葉を探した。|慰《い》|撫《ぶ》登山、送別登山、そんな言葉はないけれど、つきつめてみれば、宮村とパーティーを組んだ時の心の底には、そんな気持があった。  が、宮村は山に来て|変《へん》|貌《ぼう》した。彼の|傍《そば》でいびきを立てて寝ている宮村は、可愛い登山家どころか、恐ろしい登山家になっていた。弱々しい宮村健のひとかけらもそこにはなかった。  宮村は、すべてにおいて加藤の上に立とうとしている。市川や水野にいいところを見せようというだけではなく、それはなにか、加藤という、彼の頭の中の仮想敵国に|挑戦《ちょうせん》しているようなすさまじさを感じさせるものであった。  そのような宮村とザイルを組んで、槍の北壁を北鎌尾根へおりていくことの危険を加藤は考えていたのであった。  独身のときと違って、神戸には花子も登志子も待っているのである。間違いがあってはならないのだ。とにかく、すべては明日の天候次第だ。天候さえよければ、北鎌尾根往復はむずかしいことではない。天候が悪かったらやめよう。宮村を説得するのだ。  加藤は眼をつぶった。気を外の吹雪の音に向けると眠れそうだった。風速は落ちたが雪はあいかわらず降りつづいているようであった。  加藤は花子の夢を見た。心配そうな顔で加藤を見詰めている花子は、なにかいいそうな顔をしていながら、なにもいわなかった。 「花子どうして黙っているのだ」  加藤はものをいわない花子に話しかけた。 「文太郎さんだってなにもいわないもの」  うしろで声がした。  ふりかえると、メリンスの紫地に、白い花模様をちらした肩揚げのついた|元《げん》|禄《ろく》|袖《そで》の着物に、黄色い帯を胸高にしめた、黒い|瞳《ひとみ》の少女が立っていた。十五歳のころの花子の姿だった。 「花子と呼んでちょうだい」  と少女はいくらか首をかしげていった。黒いおさげ髪が揺れた。 「花子さん、あなたはなにしているの」 「あらいやだ。私は文太郎さんのお嫁にいくところよ。ね、きれいなお嫁さんでしょう」  花子は元禄袖の両手をつんと伸ばして加藤の前を|奴凧《やっこだこ》のようにくるくると舞い踊りながら遠ざかっていった。 「花子さんどこへ行くのです」 「文太郎さんところにお嫁さんに行くのよ」 「おれはここにいる」 「だから文太郎さんは、私をお嫁さんに迎えてくれたらいいのよ」  加藤はその花子を追っていこうとしたが足が動かなかった。  全身が縛られたように苦しかった。加藤は声を上げた。男の声が近くで彼を呼んでいた。  市川が加藤を起したのである。 「夢にでもうなされたようですね」  市川がいった。明るくなっていた。外は静かである。吹雪はおさまったのだと、加藤は思った。水野がコッフェルの前に|坐《すわ》っていた。 「夢には色彩がないってのは|嘘《うそ》だね」  加藤の頭の中には、夢で見た少女のころの花子の姿がそのまま残っていた。胸高々としめた黄色い帯の印象があざやかだった。 「色のついた夢なんて見たことはありませんね。でも、そういうこともあるでしょ。色のついた夢はまさ夢だっていいますからね。しかし、ぼくが見る夢の中の景色って、全体的に暗いものですね。夕暮れのような景色が多いですねえ」  市川がいった。 「いや、美しい色のついた夢を見ていたのだ……だが、なぜいってしまったのだ」 「なにがです? なにがいってしまったんです。夢が逃げたのですか」 「いやなんでもない。どうやら風はおさまったようだ」  加藤は二階の窓の方を見上げた。雪にまみれた宮村が、窓から入って来るのが見えた。宮村は雪を払いながら、 「天気はよくなるぞ、早いところ出発だ」  その声の方に加藤は眼を向けたまま動かなかった。      8  昭和十一年一月三日。その朝も吹雪であった。肩の小屋の二階の窓の隙間から吹きこんだ雪をはらい|除《の》けて外へ出て見ると、かなりの風速を伴った降雪がつづいていた。吹雪ではあったが、この時期の槍ヶ岳山頂としては静かな部類の吹雪であり、暴風雪というほどのものではなかった。階下にまで、外の吹雪の音は聞えず、宮村健にいわせると、いまごろこんな静かな日はめったにないような日であった。 「食事のあと片づけはぼくがやって置くから、風が強くならないうちに行って来たほうがいい」  加藤は三人をいそがせた。気まぐれな山の天気のことだからいつ急変するかわからなかった。上手にチャンスを|掴《つか》んで行動しなければならないことを加藤は知っていた。  宮村も加藤と同意見だった。 「そうだ、雪中の行動は細心と機敏の両面を備えていなければならない」  宮村は彼よりも五つも六つも年上の市川や水野の前で自分自身がリーダーであることを確認しなければならない必要にせまられたように、その言葉を、大きな声で二度もつぶやいた。  宮村は市川と水野の服装についても、鋭い視線を配った。市川は、アイゼンの|紐《ひも》の結び方について文句をいわれたし、水野は、ほころびかかったオーバーズボンをその場でつくろうようにいわれた。加藤がルックザックから糸と針を出して、その小さいほころびを縫ってやった。 「じゃあ行って来ます」  三人はそれぞれ加藤に|挨《あい》|拶《さつ》して吹雪の中へ出ていった。加藤も三人を追って窓から外へ出た。  ザイルを背負った宮村を先頭にしたパーティーは、間もなく吹雪の中に消えた。槍の穂ははっきりとは見えなかったが、しばらくそこに立っていると見えて来そうな気がした。吹雪にしては見とおしは|利《き》いた。  加藤は小屋に|戻《もど》って、朝食のあと片づけをやった。四人の食器を小屋の|隅《すみ》につもっている雪の中へさかさまにおしこんでぐるぐる|廻《まわ》すと、食器はすぐきれいになった。あとはもうなにもすることはなかった。ゆうべは夢ばかり見ていてよく眠れなかったから、|彼《かれ》|等《ら》が帰って来るまでの間、ひと眠りしようかと思って、部屋の隅に畳んで置いた布団を敷こうとすると、さっき水野のオーバーズボンのほころびを縫ってやったとき使った裁縫道具の入った袋が眼についた。  その袋は、花子が縫ったものであった。加藤が山支度を始めると、花子がそばに来て、なにか手伝わせてくれといった。山支度というものは自分でするもので、他人に手伝わせてはならないのだといくら加藤がいい聞かせても、花子は、なんでもいいから手伝わせてくれといった。手伝わせてやりたくても、なにもなかった。それでも花子は加藤が山支度をしている間はそばについていた。ずいぶんいろいろなものを持っていくのですねとか、それはなにに使うのですかと|訊《き》いた。  加藤が、針と糸と小さい|鋏《はさみ》とボタンと、そして若干の布切れの入った袋の点検をはじめると、花子の眼が輝いた。 「なぜお裁縫道具を山へ持っていくの」 「山を歩いていると、意外なところにほころびを作ったり、ボタンを|失《な》くしたりするんだよ。この道具はなくてはならないものなんだ」 「では、それ、私に準備させて」  花子は|乞《こ》うような眼を加藤に向けると、おしいただくように、カーキ色の布切れで作られた裁縫袋を受取ると、 「これよりはいい物ができるわ」  といった。加藤は花子の好意を拒絶できなかった。  花子が|薬《くす》|玉《だま》|模《も》|様《よう》の羽二重の帯の残り布で作ってくれた裁縫袋は、加藤の山の持物の中で、もっとも華やかな色彩に富んだものであった。裁縫袋は、幾つかに折り畳むようにできていて、大袋には丈夫なつぎ布、五つの小袋には、それぞれ、糸だとか針だとか鋏などが、油紙に包んでいれてあった。加藤が感激したのは、幾本かの針に、すべて糸が通してあったことだった。いつでも使えるようにしてあったのである。  二階の窓からさしこむ明るさは、かろうじて針を動かせるていどであった。加藤は花子の準備してくれた針と糸を手に持つと、自分自身の持物のなにかに、彼女の好意をためしてみたくなったのだ。彼は自分の身のまわりをふりかえった。毛糸のパンツの上に毛糸のズボン下二枚、毛糸シャツ二枚、その上に毛糸ジャケツ一枚。すべて毛糸類であって、補修を要するものはなかった。 「ではその上に着るものはどうだ」  彼はウィンドヤッケとオーバーズボンをつぎ合せて作った彼独特の防寒用外衣を点検した。別にほころびたところはなかった。 「足のほうはどうかな」  彼はこんなふうに自分の着衣のあらさがしをしたことははじめてであった。彼は|靴《くつ》を脱いだ。左側の靴の|紐《ひも》が弱そうだった。行動中に切れると面倒だから、予備の紐と取りかえた。二足の厚手の毛糸の靴下と二足の薄手の毛糸靴下には異常はなかった。毛糸の手袋と、その上にはめる|二《ふた》|股《また》の防水手袋(裏に毛皮を縫いつけたもの)にもほころびはなかった。予備の靴下、手袋も完全だった。あとに残ったものは帽子だけだった。彼はスキー帽の上に|兎《うさぎ》の皮を裏打ちした防寒帽をかぶることにしていた。その兎の皮を裏打ちした防寒帽の一部にわずかながらほころびがあった。  加藤は糸のついた針を持った。そのほころびを縫いながら花子を思った。いま時分花子はなにをしているだろうか。神戸の彼の家の茶の間が眼に浮んだ。登志子の泣き声もするし、おうよしよしといいながら登志子を抱き上げるさわの顔もよく見える。  加藤は針を動かす手を休めた。花子の心配そうな顔を思い浮べたからであった。 「大丈夫だ、予定の日までにはきっと帰るから」  加藤は針と糸に向ってそういった。いわずにはおられない気持だった。加藤は針と糸を片づけた。突然彼は、このまま、花子と二度と会えないのではないかと思った。そんなばかなことが。風が強くなったのだ。吹雪がはげしくなったから、二階の明り取りの窓が雪に閉じこめられて暗くなった。そのせいなのだと心にいいわけをしながら、突然襲いかかって来た不安からのがれようとした。  不安の原因は明らかであった。そこに宮村健がいるということが、加藤にとって不安なのだ。三時間余り|経《た》つと、彼は帰って来る。そして、市川と水野を槍平小屋へおろし、宮村と加藤は北鎌尾根へ行かねばならないのである。 (無理して行かないでもいいのだよ)  ひとりで山を歩いているとき、加藤はもうひとりの加藤と対話をすることがある。対話が議論になり、やがてはげしい|口《くち》|喧《げん》|嘩《か》になっても、結論はつく。もともと加藤はひとりであるからであった。加藤はいまここで、もうひとりの加藤と、眼の前にぶらさがっている不安について論争を試みようとは思っていなかった。それはおそろしいことに思われた。負けるおそれがあるからだった。自分が自分に負ける可能性とはなんであろうか——加藤は時計を見た。三人が出てから二時間は経っていた。  加藤は食糧を調べた。主食は若干の米と|味《み》|噌《そ》とそして、牛肉の|缶《かん》|詰《づめ》が一個あるだけであった。それは四人の一食分としては過少であった。もし、宮村と二人で北鎌尾根へ出かけるとするならば、非常食を持っていく必要がある。それに相当するものは、 [#ここから2字下げ] 小豆の甘納豆  一缶 板チョコレート  二枚 クリームチョコレート  十三個 |林《りん》|檎《ご》  二個 [#ここで字下げ終わり]  これだけだった。この中で、頼みとするものは、小さな茶筒に入った甘納豆一缶であった。  こればっかりの非常食を持ってとても|北《きた》|鎌《かま》|尾《お》|根《ね》へ出かけられたものではなかった。 「それにこの吹雪だ。北鎌尾根は無理だ」  加藤は二階へ行って、窓から外へ出て、雪の降り方を観察した。雪片が大きくなっていた。本格的な雪降りになる可能性があった。槍平へおりるとすれば急ぐ必要があった。あるていど積ると、新雪なだれが起きやすくなる。 「結局食糧があと一食しかないということは、下山するしかないということではないか」  彼は大きな声でいった。これほどわかり切ったことはなかった。宮村健がこのことに反対するとは思われなかった。 「その最後の一食を食べる用意でもするか」  今朝四人は|粥《かゆ》をすすった。粥腹で厳冬の槍の穂へ出かけたのだから、彼等三人はぺこぺこに腹をへらして帰って来るに違いない。あるいは凍傷寸前の状態で帰って来るかもしれない。  加藤は階下におりて食事の用意を始めた。燃料の石油はそう豊富ではなかった。おそらく、この食事が終ると、あとは一度湯を沸かして飲むことのできるていどの石油しか残らないものと推測された。 「食糧も燃料も尽きたのだ。下山するしかしょうがない」  今日は三日である。三日の夜は槍平小屋、四日の朝早く槍平小屋を出発すると遅くとも五日の夜までには神戸へ帰ることができるのだ。花子と登志子のいる、暖かいわが家へ帰ることができるのだ。  石油コンロはよく燃えた。粥がいいにおいを立てはじめた。  十一時半になって、三人は|槍《やり》ヶ|岳《たけ》から帰って来た。市川と水野は寒さでろくろく口がきけなかった。彼等は小屋へ入ると、そのままぶっ倒れてはげしい呼吸を吐きつづけた。 「きのうにくらべたら、今日の方がずっといい」  宮村は防寒帽を取りながら、たいしたことはなかったように加藤に話しかけたが、加藤には、市川と水野とザイルを組んで槍ヶ岳へ登った宮村が相当、疲労していることがよくわかった。宮村の|膝《ひざ》がこきざみにふるえていた。 「さあ粥ができた。温かいものを腹へつめこめば元気が出る。大荒れにならないうちに槍平へおりよう」  加藤は、みんなに聞えるように大声でそういうと、それぞれの食器に粥を盛り分けてやりながら、 「食糧はこれでおしまいだ。食糧がなくなったからには下山するより手はないだろう」  念をおすようにいった。 「なに下山する?」  宮村は、もう一度いってみろというような顔で加藤を|睨《にら》んだが、なにもいわずに、粥をすすり出した。市川と水野は、食べながら、加藤さんすみませんとか、これで生き返ったとか、槍ヶ岳の頂上の風は気が遠くなるほど冷たかったなどと話し合っていた。  食事はまたたく間に終った。|誰《だれ》もが腹六分目の感じだったが、もう米は一つぶもなかった。残った食糧は、甘納豆一缶と林檎二個と、板チョコ二枚とクリームチョコレート十三個であった。食い足りない眼が、そこに残っている食糧の方へちらちらと動き出したとき、宮村健がつと立上って、彼のルックザックの中からサブザックを引張り出すと、 「これは非常食として、ぼくらが|貰《もら》います。いいでしょうね」  宮村は市川と水野に了解を求めると、サブザックの中にそれらの食糧をさっさと詰めこんだ。サブザックはまだがらあきであった。宮村はその中へアルコールバーナーを入れた。 「宮村君、下山しよう。とてもこの吹雪では無理だ。非常食もそれだけでは心もとない。それに燃料がほとんどなくなっている。今度はひとまず下山しよう」  加藤は宮村の感情を害さないように静かにいった。 「下山ですって、加藤さん。冬の北鎌尾根をやるといって出て来た加藤さんが、これくらいの吹雪で退散ですか、これは驚いた」 「君は驚くかもしれないが、ぼくには、この状態なら下山以外に手はないと考えられるのだ、おりよう」 「いやだといったら」 「それは困る」 「困るでしょう。加藤文太郎ともあろうものが、パーティーを|見《み》|棄《す》てて、ひとりで帰ることはできないはずです」 「見棄てるのではない。君との了解の上で、ぼくはこの人たちと山をおりたい」 「できたらやってごらんなさい。え、加藤さん、そんなことが許されると思いますか。不世出の登山家とうたわれたあなたがですよ、自分の都合で、勝手にパーティーを解消するなんてことができるはずがないじゃあありませんか。パーティーを組んだ以上死ぬも生きるも一緒でなければならない。それがアルピニズムっていうものじゃあないんですか」  加藤は黙った。いっても|無《む》|駄《だ》だと思った。宮村はいつもの宮村ではない。加藤は槍平小屋へ下山の決心を顔に現わしたまま出発の用意をはじめた。|布《ふ》|団《とん》はもとあったところに片づけられた。加藤は小屋の壁の|釘《くぎ》にかかっていた先のすり切れた|箒《ほうき》を使って床の上を掃除した。ほこりの中で彼はつづけてくしゃみした。くしゃみしながら彼は、彼の|傍《そば》で心配そうに彼を見つめている花子を思った。妻子がある|身体《か ら だ》だ。決して無理をしてはならないのだ。  加藤は、ルックザックを背負って、|真先《まっさき》に二階の窓から外へ出た。意外に外は明るかった。吹雪はおさまっていた。風もほとんどなく、ままごとあそびのような雪が、きらきら舞っていた。薄日がさしかけていた。 「いい天気になったじゃあないか」  宮村健は|雪眼鏡《ゴーグル》をかけ、サブザックの中に懐中電灯とローソクを入れながら、 「加藤さんの負けですね」  といって笑った。加藤が下山を主張する理由は食糧がないことと、天候が悪いことの二つであった。そのひとつの理由がものの見事に解消したことを宮村は加藤の負けだといったのであった。 「これは|偽《にせ》の晴れ間なんだ。日本海の中ほどに低気圧が来た場合、季節風と低気圧の勢力が均衡して、ごく短時間に晴れ間を見せることがある。その晴れ間は二時間つづくこともあるし三時間の場合もある。すぐそのあとですごい暴風雪になる場合が多い。冬の北アルプスでの一時的晴れ間はむしろ悪い前兆なのだ。今朝がたからの雪の降り方を見ていても、そのことはわかるはずだ」  加藤は眼の前にひろがっていく青空に眼をやりながらいった。 「加藤さん、ぼくにだって、そんなことはわかっています。偽の晴れ間なら、|尚更《なおさら》のこと、そのチャンスを|掴《つか》もうじゃあありませんか。われわれの実力を持ってすれば、二時間あれば北鎌尾根を踏むことができるのですよ。北鎌尾根を最終目的地と決めた以上、ぼくはどうしてもそこまで行きたいんです。ぼくの記念すべき最後の山行には心残りのないようにしたいんです。北鎌尾根まで行かないうちに天気がおかしくなったら、引きかえして来て、このまま槍平へおりましょう……ね、加藤さん、ぼくは加藤さんと|喧《けん》|嘩《か》|別《わか》れなんかしたくないんです」  加藤は宮村の顔を見た。|雪眼鏡《ゴーグル》が邪魔して彼の真の表情はそこにはなかったが、久しぶりで宮村らしいもののいい方に加藤はかえって一種の感動をおぼえた。ここ数日来仮の姿の宮村であった彼が、今こそ正真正銘の宮村の姿を見せたのだと思った。園子に裏切られ、失意の中に山に走り、加藤文太郎の足跡をひたすらに追うことによって、自己満足していた、宮村健という弱い人間の姿がここに立っているのだ。  市川や水野に言葉の|鞭《むち》をふるってここまで引張り上げたのは、弱い自分をかくすためにやった宮村の演技であった。だが、なにもかも知っている加藤の前で演技をつづけることはこれ以上できなかった。宮村は本来の宮村にかえって、加藤に同行を|乞《こ》うたのである。  眼前の薄い雲のベールが消えると、濃紺色の青空の中に巨大な白い|尖《せん》|峰《ぽう》が姿を見せた。白い尖塔はまぶしく輝いていた。ただ一様に白く輝く物体ではなく、氷の被膜におおわれながらも、岩峰としての特色を、ところどころに露呈する岩にとどめながら、やはり、北アルプスの象徴としての、非情と絶美との交錯した荒々しい冷たい|肌《はだ》に、光と死のように暗い|翳《かげ》を浮ばせていた。  それは、かつて幾度となくこの地を訪れたときの加藤が見た槍ヶ岳とは違ったものであった。|荘《そう》|厳《ごん》でもあった。優美でもあった。あらゆる形容詞を|以《もっ》てしても、尚かつ表現できないものを槍ヶ岳は持っていた。加藤は、その槍ヶ岳が巨大な電磁体に見えた。そこから眼に見えない磁力線が投げかけられて、それにからめ取られて|牽《ひ》きつけられていこうとする自分を見つめた。なにか呼吸の乱れさえ感じられるようであった。 「すばらしい、実にすばらしい山だ」  加藤の|唇《くちびる》から言葉が|洩《も》れた。それ以上のはげしい感動をこめた言葉を、眼の前の美しいものに投げてやりたかったが、適当な言葉が見つからなかった。もどかしかった。いったいこれほど美しいものが世の中にあるだろうか、それは静視するだけで去ろうとする者に対して制止力を持っていた。絶頂に立ってこの千載一遇の輝きの中に全身を浸したいと思うと、もう矢も|楯《たて》もたまらない気持だった。いま加藤の頭の中には北鎌尾根も宮村もなかった。それまで、加藤と共に歩みつづけていた花子さえいなかった。花子の座に、槍の穂が|坐《すわ》って動かなくなったとき、加藤は宿命的とも思われるほどの誘惑を、その白い尖塔に感じた。理屈はなかった。ただ登ってみたかった。水銀のようにきらきら輝き、大理石のように堅いその氷壁を、彼のアイゼンで踏みしめたかった。 「やろう——」  と加藤は自分自身にいった。その声で彼ははっとした。やろうといったのは、眼の前の美しい物に対する話しかけであり、宮村と同行を承知したのではなかった。槍の穂に立とうといったまでであった。 「加藤さん、ぼくと一緒に行ってくれるんですね」  宮村が加藤の手を握っていった。  加藤の顔に一瞬混乱が起きた。違う、北鎌尾根まで行くのではない。槍ヶ岳の穂に立ちたいのだ。そう訂正することが加藤には今さらできなかった。加藤は空を見た。たのむは天候である。偽りの晴れ間であればあるほど、時間は貴重だった。加藤は、それまでの加藤らしからぬあわてぶりで、彼のサブザックの中に予備の手袋と靴下と懐中電灯と地図を入れた。  なにか大事なものを持っていくのを忘れたような気がしたが、思い出せなかった。加藤はサブザックを背負った。空気を背負ったようにむなしかった。  加藤は一歩を踏み出したところで、背後に花子の声を聞いたような気がした。彼は、さらに数歩を歩んだ。重大な誤算をしているのではないかと思った。だが、立ち止らなかった。眼の前に|聳立《しょうりつ》している絶美なものの前に近づいていく自分をはっきりと意識した。宮村に対する同情や、皮相的なアルピニズムのために宮村と同行するのではないと、自分にいい聞かせていた。 「じゃあ行っていらっしゃい。槍平の小屋で待っていますから」  市川と水野がピッケルをふった。  パーティーは二つに分れた。 「加藤さんは、どうして急に気持を変えたのだろう」  市川がいった。 「山が呼んだんだよ、あの山が」  水野は槍ヶ岳をふり仰いでいった。  槍ヶ岳の氷壁には、加藤がトップに立った。二人はザイルで結ばれた。天気はいいし、宮村等三人が登るときカッティングした跡がはっきりしているから、頂上にいくにはそれほどの苦労は要らなかった。一時間後に二人は槍ヶ岳の頂上に立っていた。天候はにわかに変る様子はなかった。南につづく穂高連峰、東に白い山塊として横たわる常念岳と|蝶《ちょう》ヶ岳、西に|笠《かさ》ヶ岳、北に野口五郎岳を越えて|皚《がい》|々《がい》とつづく立山連峰の山々を|眺《なが》めながら、加藤は、冬の|最《さ》|中《なか》に出会したこの|奇《き》|蹟《せき》的な快晴は、やはり偽りのものだと思った。  北鎌尾根へおりて、また登って来るとすると、その往復にどんなに急いでも二時間はかかる。加藤は太陽を見た。太陽は南西の空に輝いていた。 「さて、ぼつぼつ北鎌へおりましょうか。これからがほんとうの冬山の|醍《だい》|醐《ご》|味《み》を味わえるところでしょうね」  宮村はザイルについた雪を払い落しながら、北鎌尾根の降り口に近づいていった。加藤はもう一度太陽を見た。そして決意した。  北鎌尾根への下りはきわめて危険なところが多かった。夏でさえも、この岩壁は一般ルートとして認められてはいないところであった。北斜面であるがために、氷のつき方も多く、露呈した岩も少なかった。ザイルの使い方がうまい宮村が、先におりていく加藤を確保した。ザイルがものをいった。ザイルなしでは、とてもおりられるところではなかった。  北鎌尾根は足下に平たく延びて見えた。なんの変哲もない素直に延びた雪の尾根としか見えなかった。あまりにも明るいために、尾根の起伏がはっきりしなかった。雪がついているせいもあって|瘠《や》せ|尾《お》|根《ね》には見えなかった。むしろ肉づきのいいしっかりした尾根に見えた。  ザイルに結ばれた二人は、互いに相手を確保し合いながら、氷壁をおりて行った。アイゼンの|爪《つめ》が立たないような氷が張りつめた悪場がつづいた。二人を結んでいるザイルが延びたり縮んだりした。二人は岩峰の基部に立った。北鎌尾根に踏みこんで槍の穂を見上げると、肩の小屋で眺める槍の穂以上に|峻険《しゅんけん》な岩壁に思われた。ルートを取り違えたら、容易に頂上に達することはできないだろうと思われた。加藤は異常に澄み渡った空に眼をやった。天候が変って吹雪になったら、帰路を失うかもしれないという心配が出たのである。  北鎌尾根を境として空間は二様に分けられていた。槍ヶ岳頂上で眺めたときと違っていた。東部の諸方の山には積雲がかかっていたが、西方の諸方の山の上空は例外なく晴れていた。だが、その空の色は、西と東では違っていた。太陽光度の関係もあったが、西方の空は全体に白濁していた。  加藤は太郎山の上空に眼を止めた。そこにレンズ雲が、ひとつぽっかりと浮いていた。レンズ雲は、やや南向きに傾いていた。傾いている側のレンズの縁辺に一条の糸のような雲がからみついていた。レンズ雲は透明ではなかった。型はレンズに見えたが、よく見ると、水平に|渦《うず》を巻く一つの雲のかたまりであった。 「まずいな」  と加藤がいった。宮村も、加藤が天気悪化の兆候を掴んだのを認めていた。 「急ぎましょう。あそこまで行ったらすぐ引きかえしましょう」  あそこまでと、宮村が指さした二九〇七高地を加藤は眼でおさえて腕時計を見た。二時十五分前であった。加藤は静かに首をふった。雪中の行動は原則として三時までに終らせねばならない。肩の小屋までの帰途二時間を頭に入れると、とてもそこまでは行けなかった。 「じゃあ時間で決めましょう。三十分だけ北鎌尾根を歩いて引きかえすことにしましょう。そうでないと少なくとも北鎌をやったことにはなりませんからね」  三十分間北鎌尾根を前進するということは、往復一時間北鎌尾根に滞在することになる。それでは少し時間を食いすぎるではないかと加藤はいおうとした。そのときはもう宮村は雪の中を歩き出していた。  加藤は太郎山に浮んでいたレンズ雲にずっと注意を向けていた。もし天気が悪くなるとすれば、その前兆はレンズ雲に現われるのではないかと思っていた。そのレンズ雲は三十分|経《た》たないうちに消えた。 「おい宮村君、レンズ雲が消えたぞ」  その呼びかけに応じて宮村がそっちを見たとき、二人は危うく、吹きとばされそうな突風に襲われた。重量感を持った風だった。その突風の一撃を合図に、山の|相《そう》|貌《ぼう》は変った。明らかに北西寄りの季節風の吹き出しと判断される風が連続的に吹き出したのである。飛雪が舞い狂って視界をさえ切り、そして当然予測されていた降雪が始まったのであった。  加藤は彼の|袖《そで》に吹きつける湿り気の多い大きな雪片に眼をやったとき、やはり来るものが来たのだと思った。その雪は、今朝方三人が槍ヶ岳へ登っているとき降った雪だった。天は二時間と少々中休みをして、その間蓄えこんだエネルギーを一挙に放出しようとしているように見えた。  あらゆるものは視界から消えた。もはや前進すべきではなかった。  二人は帰路についた。雪に足跡を消されないうちに、槍の穂の取付点まで引きかえさねばならなかった。  だが、吹雪と飛雪は、ものの十分とは経たないうちに彼等の足跡を消した。足跡を見失ったことは方向を失ったことになる。彼等は強風の中を|這《は》うように槍の穂を探した。風の方向が一定せず、乱れていることは、すぐ近くに槍の穂があることを意味しているのだが、その槍の穂が見えなかった。どうやら槍の穂の根元にたどりついたことがわかっても、取付点を探し出せなかった。  宮村はその天候の急変を彼の責任として感じているようであった。彼はしゃにむに帰路を見つけようとして、ザイルのトップに立った。二人は雪の斜面を登っていった。その傾斜が急になっていることから察して、槍の穂に取付いていることは明らかだったが、ルートからはずれていることもまた明らかだった。加藤は宮村の耳に口を当てて叫んだ。 「天上沢の方へ寄りすぎると危険だし、千丈沢の方へ寄り過ぎると、もっと危険なんだ。|戻《もど》って、もう一度登り口を探そう」 「そんなことをしていたら日が暮れる」  宮村はそういって、加藤をふり切るようにして吹雪の氷壁をよじ登っていった。吹雪の幕の中に黒い物が急速に加藤に向って滑りおりて来るのを見たのは、その直後であった。加藤はザイルをかまえた。身が不安定だと思ったが、それ以上安定な場所は見当らなかった。手袋が焼け切れるのではないかと思われるほどの摩擦にこらえながら、加藤は歯をくいしばった。宮村は止った。しばらくは動かなかった。  二人は吹雪の中でごく短い会話をした。午後四時を過ぎていた。天候|恢《かい》|復《ふく》の見通しのないかぎり、帰路をいそぐことは危険であった。二人はビバーク地点を探した。どこも吹きさらしであった。二人のできることは縦穴を掘って、その中にうずくまって朝を待つことであった。  二人は交替で穴を掘った。掘るはじから風が埋めにかかった。どうやら二人がしゃがむことのできるていどの穴ができたときは暗くなりかけていた。  穴の底にはザイルを敷いた。その上にルックザックを敷きたいのだが、二人はそれを持って来てはいなかった。穴にふたをするなにものもなかった。  加藤は、ルックザックの中に入れたまま置いて来た|雨《あま》|合《がっ》|羽《ぱ》を持って来なかったことを悔いた。それを穴の上にかぶせかけて屋根にすれば、寒気からのがれることはできるのだ。それは彼の幾たびかの経験によって明らかにされたことであった。 「とにかくなにか食べよう。食べてからどうすればよいか考えよう」  加藤は宮村にいった。宮村は返事をしなかった。宮村は|雪眼鏡《ゴーグル》の内側に吹きこんだ雪を落そうともせず、うつむいていた。眠っているのではなかった。精も根もつき果てたといった顔であった。      9  寒気は加藤文太郎と宮村|健《たけし》の頭に襲いかかった。風速およそ三十メートルの風が、彼等の頭上を吹きとおしていった。一月であるから槍ヶ岳の頂上は、少なくとも零下十度以下である。風速一メートルについて体感温度は約一度ずつ低下すると考えれば、そのとき彼等が感じた温度は零下四十度以下である。この計算はひかえ目であるから、実際は零下五十度、六十度近いものであったろう。  そのとき加藤文太郎は、スキー帽の上に|兎《うさぎ》の毛皮を裏打ちした防寒帽をかぶっていた。これは、長い間の加藤の体験から考え出した独特のやり方であり、寒さに対して最も防備を厳重にしなければならないところは頭と足と腹であるという、多年にわたる経験から割出した結論であった。足には二足の薄手の毛糸の|靴下《くつした》と、二足の厚手の靴下を重ねてはいていた。下着は毛糸のパンツの上に二枚の毛糸のズボン下、毛糸のシャツ二枚の上に厚手の毛糸のジャケツ、そして、その上にレザーコートとズボン、そして、それらの上下の毛糸ずくめの服装の|継《つぎ》|目《め》の弱点をおぎなうためにオーバーズボンとウィンドヤッケを|継《つな》ぎ合せた格好のコンビネーション防風衣を着ていた。これは飛行服にヒントを得て、加藤が考案して洋服屋に作らせたものであった。そのほかの防寒具としては、毛糸の手袋二枚の|他《ほか》に、防水布の|二《ふた》|股《また》手袋(裏に毛皮を縫いつけたもの)であった。  宮村健の服装は加藤とほぼ同様であったが、違うところは、防寒帽は一つであったこと、コンビネーション防風衣は用いず、ウィンドヤッケとオーバーズボンは別々であったこと、そして、靴下は三足であったことである。  風は縦穴にうずくまっている二人を追い出そうとはしなかった。吹きとばす必要もなかった。ただ連続的に風を送りこんでさえいれば、彼等の身体から熱は奪い去られ、二人が凍死への道を歩むことは約束されていた。  二人はこの風の魂胆をよく知っていた。雪の縦穴の中で抱き合うように寄り添って、石のように身をひそめて朝を待とうとしていた。とても寒くて眠れるような状態ではなかった。寒さに勝つためには、体内に熱量を補給してやらねばならないが、彼等がその雪の穴の中で食べたものは、ひとつかみの甘納豆と板チョコ一枚ずつであった。  二人は言葉を交わさなかった。その余裕はなかった。彼等のできることは、お互いに身体をおし合って寒さに耐えるぐらいであった。  加藤はその暴風雪の中でも、それほどの不安は感じていなかった。むしろ、割引きなしの山の顔を見たとき、おやっ、いよいよお|出《い》でなすったねという気がした。加藤のそれまでの体験から来る自信であった。山陰地方の湿り雪だったら危険を感じたかも知れないが、北アルプスの|槍《やり》ヶ|岳《たけ》の乾いた雪ならば、それほど恐ろしいとは思っていなかった。寒いには寒いが、それだけ着込んでいれば凍える心配はなかった。その感覚も彼の経験によるものであった。 (非常に疲れていないかぎり、充分に食べてさえいたら、|雪《せつ》|洞《どう》の中で眠っても凍えるようなことはない)  加藤はそう信じており、その加藤の思想は、新鋭登山家の支持を受けていた。だがこの場合、心配なのは充分に食べていないということだった。夏山においても、冬山においても、加藤が山にいるかぎりは、彼の|上《うわ》|衣《ぎ》の二つのポケットは、甘納豆と|乾《ほ》し小魚でふくらんでいた。歩きながら、ぼりぼり食べ、休んでは、ぼりぼり|喰《く》った。ポケットがからっぽになると、ルックザックの中から補給した。小豆の甘納豆と乾し小魚は加藤の連続的エネルギー補給源であった。しかし今度は違っていた。乾し小魚の入った|缶《かん》は槍平の小屋に置いて来てしまったし、いま残っている|僅《わず》かばかりの甘納豆も、宮村健と加藤文太郎の命をつなぐ重要なる共通食糧であった。  加藤は空腹だったが、疲労はしていなかったから、まず眠っても大丈夫だろうと思った。夜がふけるとともに、彼の肉体は睡眠を要求した。  加藤は頭が|膝《ひざ》につくほど背を丸めて眠った。ザイルの上に腰かけている|尻《しり》のあたりが痛かったが、やがて、それも気にならなくなった。どのくらい寝たかわからないが、宮村が動く気配で眼を覚ますと、穴の中に吹きこんだ雪は、二人の膝のあたりにまで来ていた。尻のあたりがひどく冷たかった。手をやってみると、尻に敷いているザイルのあたりの雪が溶けていた。いかに体温の流出を防ごうとしても、どうにもならないのである。体温が流出することは、それだけ彼等は寒さを感ずることになるのである。 「寒い。どうにも寒くてやり切れないから、石油コンロで暖をとろう」  宮村がいった。いうだけであった。そこの状態は石油コンロで暖をとれる状態ではなかった。第一、風が吹きこんで来て火をつけることもできなかった。 「もうすぐ朝になる。それまで待て」 「朝になれば、風は|止《や》みますか」 「止む。きっと止んで、いい天気になるぞ」  加藤は、宮村の耳元でそういった。しかし加藤はこの暴風雪は、そう簡単に止むものではないと思った。 (もし、この調子で、三日も吹いたら……)  食糧がなくなることが心配だった。それに、その場所はビバーク地点として、もっとも不都合なところであった。いかにもここは、鬼も近づかない|北《きた》|鎌《かま》|尾《お》|根《ね》ではあるが、こんな吹きさらしのところばかりではなく、もう少しましなところだってあるだろう。吹雪が止まなければ肩の小屋へは帰れないから、それまではもう少しビバークのコンディションのいいところへ移動したい。加藤はそう思った。  その朝の寒気はものすごかった。二重に防寒帽をかぶっている加藤の頭も、鉄の輪でしめつけられているように痛かった。宮村は、寒さをこらえるために、しきりに|身体《か ら だ》を動かしつづけていた。  吹雪はいささかも衰えようとする気配は見せなかったが、加藤は、夜から朝へ、または昼から夜への移り変りのとき、必ずごく僅かな時間だけ小康現象があることを知っていた。その気象現象が、この暴風雪に適用できるかどうかはわからないが、もしその現象が起きたとすれば、その間に行動を起して、もっと有利なところに移動すべきであると考えた。 「おい宮村君。夜が明けたらここを出よう。風の合間を見て、もう少しいい場所を探そう」  宮村はうなずいただけで返事をしなかった。宮村は一夜の寒さで、ひどく痛めつけられていた。朝の明るさの中で見る彼の顔には精気がなかった。きのうまでの、あの自信に満ちた顔はなく、ひどく|物《もの》|憂《う》げに見えた。顔についた雪も払おうともしなかった。 「ねむいなあ……」  と、宮村がいったとき、加藤は、宮村の頭が夜が明けても|朦《もう》|朧《ろう》としているのは、きっと、寒さで頭がやられたのではないかと思った。加藤にもその経験があった。寒さはまず頭から来るものだということを知ってから以後、加藤は他の登山家たちがいかに笑っても、二重に防寒帽子をかぶっていたのである。  加藤は彼の内側にかぶっている、スキー帽を取って、宮村にかぶせてやった。宮村はその好意に対してありがとうもいわずに、ぼんやりと加藤を見ていた。そのとき、リーダーは、宮村から加藤にはっきりとバトン・タッチされていた。  二人は朝食のためのひとにぎりの甘納豆とクリームチョコレートを二個ずつ食べた。|林《りん》|檎《ご》は石のように固くなっていて食べられそうもなかった。水が欲しかったが、水筒の水は完全に凍っていた。  夜と朝との境目におこるべき小康現象はついに起らなかった。とても立っては歩けないほどの風速であった。二人は待つしかなかった。待つことはやがて雪によって生き埋めにされることにもなりかねないが、さし当ってどうすることもできなかった。かわきをいやすために雪をなめた。雪を食うことは、体内の熱を奪われることだったが、かわきには勝てなかった。その暴風雪はその日の四時過ぎになって小康を見た。昼から夜への境目に示した、ごくわずかばかりの山の好意であったが、それは槍の穂への帰路が発見できるほど見とおしの効くものではなく、それまでに比較して、どうやら立って歩けるほどの余裕が出たという程度であった。 「肩の小屋へ帰ろう」  と宮村健がいった。 「この風なら、|頑《がん》|張《ば》れば、やってやれないことはない」  宮村はそういって、雪の穴から立上った。一昼夜の間に宮村はすっかり弱っていて、とてもこの風では無理だし、時間的にも不可能に考えられた。 「槍の穂に登るのは無理だ。だが、ビバークの地点を変えないと、このままでは凍え死んでしまう」  加藤はそういって立上った。どこか岩のかげの吹きだまりにでも雪洞を掘って風をさけようと思った。二人はザイルを組んだ。加藤が先に立った。  加藤は、|昨夜《ゆ う べ》のビバークの間中、ずっと風の音を聞いていた。その風の音で、|彼《かれ》|等《ら》がビバークしている近くの地形をほぼ想像していた。雪洞を掘るとすれば、その位置は風下に見つけなければならない。しかしそこには|雪《せっ》|庇《ぴ》の危険がある。雪庇もなく風もさけられるという格好の岩陰があるかどうか自信はなかった。が、それを見つけねばならないのだ。そうしないと、二人は死ぬのだ。  加藤はなにか背後で起ったような気がした。ふりかえったとき彼は、吹雪ではない、雪煙りの中に、あおむけになって倒れこんでいく宮村の姿を見た。加藤はすぐザイルを肩がらみして確保する用意をした。ザイルの重さががくんと彼の肩にかかったとき、彼がふんばっている足元の雪がたわいなく崩れていくのを見た。  次の瞬間、加藤は雪煙りの中に巻きこまれていた。  どっちに向って滑っていくのかわからなかった。頭が先か足が先かも判断がつかなかった。滑っていく割に抵抗感は少なかった。ものすごく呼吸が苦しくなり、なにかのはずみにひといきついたとき、頭の|隅《すみ》の方で、いま自分たちは|雪崩《な だ れ》の中に巻きこまれて流されていくのだと思った。自分の身体ではもうなくなっていて、なにか自然の大きな力の中に|俘《とり》|虜《こ》になっている感じだった。  音は聞えていなかった。妙に静かなところをまっしぐらに滑りおりていく気持だった。  加藤はふわりとしたものを感じた。雪の中からほうり出されたのだと感じた瞬間、どさりと雪の中に投げ出され、そこでぴたりと止った。  加藤の頭は下を向いていた。ピッケルの|紐《ひも》はまだ彼の右手から離れずにいた。背負っていたサブザックもそのままだった。加藤は雪の中から|這《は》い上ると、腰についているザイルをたよって宮村健のところにいった。宮村は雪の上に起き上って放心したような顔でいた。彼もまたどこにも|怪《け》|我《が》をしてはいなかった。  雪崩を起したのではなかった。新雪とともに押し流されたのであった。雪が深かったから怪我はしなかったのであった。  どのくらい流されたのかその距離はわからなかった。わかっていることは、彼等のいるところがきわめて急な斜面であった。そんなところにうろうろしていると、いつまた流されるかわからないということであった。  北鎌尾根へよじ登るか、それとも、そのままこの斜面をおりて、少なくとも雪崩の危険のないところへ退避するかどっちかであった。  加藤は、深雪の中を泳ぐようにして登った。三歩登ると二歩はおしもどされそうなところであった。そこは明らかに岩壁といってもいい傾斜角度を持っていた。新雪雪崩を起す可能性があった。  加藤は時計を見た。四時半に近かった。とても北鎌尾根に引きかえすことはできないし、それよりもなによりも恐ろしいのは、夜の到来であった。  加藤はそこに雪洞を掘ることにした。  急な斜面を利用して雪をかき出して、穴の中にもぐりこむしか方法はなかった。  加藤が雪洞を掘りにかかったのを見て、宮村もそれに協力した。雪洞を掘っていると、上部から、強風が吹きおりて来て雪煙りを上げ、しばしば二人をめくらにした。 「天上沢に落ちたのだ」  加藤は風の方向で、そう判断した。  どうやら二人が入れるだけの横穴ができて、その中に入った。そこは北鎌尾根の背の上ではなく、風の陰になっていたから、昨夜ほど風は強くなかった。二人にとって幸いなことには、どうやら、その穴の中で、石油コンロに火をつけることができたことだった。  いまは、まず水を作って飲むことだった。やはり気が狂うほど|咽《の》|喉《ど》がかわいていた。凍った水筒をそのまま携帯用石油コンロにかけてとかしながら、二人は、火を見たことでなにか救われたような思いになった。  二人は水を飲み、そして、甘納豆を二十粒ほど数えながら食べた。もうあと甘納豆はいくらも残っていなかった。  石のようにかちかちになった林檎を、ピッケルでこまかにたたき割って、コッフェルに乗せた。林檎は音を立てて溶け、やがて煮えた。それにクリームチョコレートを二個ほど加えて味をつけた。二人はそれを分け合って食べた。熱いものが身体に入ると少しばかり元気が出た。  食事が終ると、加藤は石油コンロの火を消した。  いまは、この小さな石油コンロが、もっともたよりになる二人の財産であった。水は作ってもすぐ凍ってしまうから、食事のたびに、石油コンロを使わねばならなかった。その石油の量も、あと二回か、せいぜい三回分の水を作るだけの量しかなかった。  二人は、また寒さとの戦いの夜に入った。腹が減っているせいか、前夜より寒さが身にしみた。  加藤は、こういう状態のままで眠るのは、多分に危険だと思った。疲れてもいたし空腹でもあった。眠ればそのまま凍死するかも知れないと思った。だが、眠らないでいることが、生きられることだろうか。  その夜、宮村は寒さを連続的にうったえた。石油コンロに火をつけようといった。そうしないと、凍え死んでしまうに違いないといった。  石油コンロに火をつけたところで、雪洞の入口をおおいかくすものがないから、雪洞の中の温度の上昇は期待できなかった。  手先をあたためるか、足ゆびをあたためる程度のことしかできないのだが、宮村は石油コンロに火をつけることをしきりに望んだ。 「加藤さん、はやく石油コンロに火をつけて下さい。どうにもこうにも寒くてしょうがないんです」  しかし、その宮村も加藤が今、二人のパーティーの生死の|鍵《かぎ》はこのちっちゃな石油コンロが握っているのだといい聞かせてやると、承知をするのだが、しばらく|経《た》つとまた同じことを訴えた。きのうまでの宮村ならば、なにがなんでも、彼の意志を押しとおそうとしただろうが、そのときの宮村健はもうきのうまでの宮村健ではなくなっていた。宮村は加藤の下宿に遊びに来たころの宮村になっていた。加藤のいうことならなんでも聞き、加藤こそもっとも尊敬できる人間だと信じこんでいたころの宮村健の|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》な姿がそこに現われていた。  加藤には、宮村のその変り方が、むしろ危険信号に思えてならなかった。急におとなしくなったのは、彼の体力の消耗によるものであることは明らかであった。宮村はきのう、|槍《やり》ヶ|岳《たけ》との間を二往復した。その一往復だけ疲労は加藤より多いのだ。それに、宮村はゆうべの寒さで、頭を少なくとも加藤よりひどく痛めつけられている。コンビネーションの防風衣とそうでない防風衣の差も出ていた。加藤と宮村の年齢の差を考慮に入れても、これだけのハンディキャップがあれば、宮村の方の消耗が、加藤より早く現われるのは当然であった。  その夜は、加藤にとっても、昨夜よりつらい晩であった。昨夜は一晩中強風が頭の上を吹き通っていたが、今夜は風はそれほどではなかった。それにもかかわらず、寒さがきびしく感じられるのは、食べていないからであった。うとうとすると寒さで眼がさめた。  夜が明けたとき、加藤はいままでにない疲労をおぼえた。身体中がだるかった。  暴風雪はまだつづいていた。なぜこうも連続して吹くのか、加藤にはわからなかった。もうそろそろ晴れてもいいころだと思うのだが、新雪はさらに雪の層を厚くしていた。  明け方の寒さの中で、残った林檎一個をピッケルで粉々にくだいてコッフェルに入れ、その中に甘納豆二十粒ばかりを入れ、少量の雪を加えて妙な|粥《かゆ》を作った。それが朝食であった。  吹雪はきのうよりいくらか落ちついて来たような気がした。 「よし頑張ろう。北鎌尾根まで|戻《もど》り、なんとかして槍の穂へ登る道を探そう、肩の小屋へ逃げこみさえしたらなんとかなる」  加藤は宮村をはげました。  宮村は黙って|顎《あご》を引いただけだった。宮村はさらに弱っていた。  数メートル登ったところで、宮村が滑って十メートルほど落ちた。 「足が|利《き》かない、凍傷らしい」  雪だらけになって立上った宮村の顔は、幽鬼のように青白かった。宮村の両足指は凍傷にかかったのである。そこにも、宮村と加藤との装備の差があった。加藤は冬山山行のときには、幾分大きめの|靴《くつ》を履くことにしていた。毛糸の靴下も四足はいていた。宮村は三足はいていた。四足と三足の差が、限界における凍傷となって現われたのである。  加藤は、北鎌尾根へ帰ることをあきらめた。到底無理な話であった。北鎌尾根をあきらめたとなると、肩の小屋をあきらめたことになる。すると、この場合、生きる道はただひとつ、天上沢にそって下山していって|湯《ゆ》|俣《また》へたどりつくことであった。  その距離は遠く、雪は深かった。だが、いまとなったらそれ以外に生還できる道はなかった。 「湯俣へ出よう」  加藤は宮村健にいった。  返事がなかった。宮村は吹雪の中にうつろの眼を投げていた。  二人は雪まみれになったままおりていった。滑ったり、転んだりの連続だった。一度に五メートルも十メートルも滑りおちることもあった。それでいて不思議に雪崩にはならなかった。雪の急傾斜面をおりて沢に出たところで、二人は方向を左に変えた。そこからは沢ぞいにどこまでもどこまでも歩いていくと、やがて高瀬川の上流の|水《みな》|俣《また》|川《がわ》に出る。そこには|吊《つ》り|橋《ばし》がある。その辺からは道があり、湯俣の小屋までは四キロほどである。湯俣には熱い湯がある。うまくいくと人が来ているかもしれない。小屋を探せば、どこかに食糧があるはずだ。  加藤の頭の中には天上沢からまっすぐ北に向って延びている高瀬川水系があった。 「北へ北へと進めば、われわれは湯俣の小屋に出るのだ。今日中には無理だろうが、明日中にはきっと行きつくことができるだろう」  加藤は宮村にいった。  そこまでは、磁石は要らなかったが、天上沢についてからは、磁石が必要だった。深雪の中で|無《む》|駄《だ》な労力を費やしてはいけない。加藤は磁石を出して北の方向に目標を定めて歩いた。そこまで来ると吹雪の様相も北鎌尾根とはだいぶ違っていた。風もひどくはなかったが、乱れがあった。視程も二十メートル先を見ることができたから、磁石の北の方向に、適当な地物の目標をとって、そこまで歩き、そこでまたその先に目標を求めて進むという方法をとった。  北へ進めばいいということは気が楽だった。北にさえ進んで行ったら、必ず湯俣へ行きつくことができるということも彼等の気持を明るくさせた。だが、最大の障害は深雪だった。彼等は|輪《わ》かんを持っていなかった。たとえ持っていたとしても、それほど役にはたたないだろうと思われる新雪だった。|股《もも》のあたりまであった。吹きだまりに出ると、海の中を泳ぐように雪をかきわけて進まねばならなかった。雪を踏むという形容は当らなかった。雪の中を|漕《こ》いでいくというのも適切なことばではなかった。彼等は雪の中を半ば潜行していった。燃料のまさにつき果てようとする潜行艇のようであった。  深雪は多量なエネルギーの消耗を彼等に要求した。食べてもいないし、眠ってもいない彼等は、心はあせっても動くことはできなかった。 「加藤さん、人の声がする」  宮村がいった。眼が輝いていた。 「人の声が?」  加藤は念のために、防寒|頭《ず》|巾《きん》を取って耳をすませた。吹雪の音がするだけであった。 「人の声なんかしない。あれは吹雪の音だ」 「そうですか」  宮村はがっかりしたように肩を垂れた。加藤は、そのとき、ぞっとするような恐怖を感じた。今まで、ついぞ感じたことのない死を頭の中においての恐怖だった。加藤自らの頭上にふりかかって来たものではなく、それは、宮村にまつわりつきはじめた死の影であった。 (宮村は幻聴を聴いたのだ)  遭難の第一歩がはじまったのだ。加藤もかつて、厳寒の|氷《ひょう》ノ|山《せん》で、幻覚に襲われたことがあった。山陰地方の湿雪にやられて、たわいなくノックダウンされようとしたのだ。あのとき疲労と寒気の中から生還できたのは、食べていたからだった。腹が減ってはいなかったからなのだ。疲れ果てて倒れて眠ったが、それで一時的に元気を|恢《かい》|復《ふく》して、そして危地を脱したのだ。  宮村の幻覚は危険な信号であった。これ以上歩かせてはならない。彼に休養を与えねばならないのだ。 「加藤さん、ほら聞えるでしょう。水野さんと市川さんの声がね」 「吹雪の音だ。しっかりしろ」  加藤は宮村を怒鳴りつけると、まだ暮れるには時間があったけれど、寝ぐらの用意をしなければならなかった。加藤は、ピッケルをたよりに|雪《せつ》|洞《どう》を掘りにかかったが、息が切れた。眼が|廻《まわ》りそうだった。空腹で力が出ないのである。  宮村に協力を求めることはもうできなかった。宮村は雪の上に|坐《すわ》ったままだった。宮村は幻聴の次には、幻視を見るだろう。それはもうわかり切ったことのように思われた。  雪洞は不完全なものであったが、どうやら二人を収容することができた。  加藤は石油コンロに火をつけて、コッフェルで湯をわかした。ぱらぱらと少量の小豆の甘納豆がその上にばらまかれた。それが甘納豆の最後のものであった。  熱い湯は宮村の幻聴を消したようであった。 「今日は何日ですか、加藤さん」 「そうだな」  加藤は日を数えた。三日の夜は|北《きた》|鎌《かま》|尾《お》|根《ね》、四日の夜は北鎌尾根下、そして、 「五日だよ今日は」 「もう間もなく日が暮れるでしょう。もし明日の朝、ぼくが眼を覚まさなかったら、ぼくは加藤さんに、たいへんな精神的借金を負って死ぬことになります。だからぼくはいま……」  突然、妙なことをいい出した宮村の顔を加藤が|覗《のぞ》きこむと、宮村は、頭がぼけたのではないことを示すように、首を左右にふっていた。 「結局ぼくがいけなかったんです。あんな時間に北鎌尾根をやろうなどといって、加藤さんを引っぱり出したぼくが悪かったのです、すみません」  宮村は頭を下げた。 「|誰《だれ》がいい出したにせよ、パーティーを組んで出発した以上、こうなったのは二人の共同責任だ。今はそんなことに気を使わずに、生きて帰ることだけ考えればいいのだ」 「さっきぼくは幻聴を聞きました。山で幻聴を聞くということは、死に向って一歩足を踏み出したということになるのではありませんか」 「ばかな、そんなことがあるものか、おれだって、今までに何回となく幻聴を聞いたことがあるが、ちゃんとこうして生きている」  それから二人は言葉を|失《な》くしたように、黙りこんだ。  その夜はまた前夜に増して寒かった。どのようにしても、その寒さから逃れることのできない寒さであった。  加藤が両足のゆび先に激痛を感じ出したのは夜半を過ぎてからだった。彼はその痛さで眼を覚まして、懐中電灯をつけて靴の|紐《ひも》を解きにかかったが、紐が凍りついていて、解くことができなかった。靴を脱ぐには、靴の紐を切らねばならなかった。靴の紐の予備は持っていなかった。足の指の凍傷を救うか、靴を救うかどちらかに決めねばならなかった。加藤は腰をおろしたままで、しきりに靴の足を動かした。あらゆる才覚をめぐらしても、靴の紐を作り出すことはできなかった。かちかちに凍った紐を切るには、ずたずたにしなければならなかった。それをつなぎ合せて使うというわけにはいかなかった。石油コンロであたためて解かすという法があったが、あと一回だけ湯を沸かす分しかない石油を、靴の紐を解くのに使うことはできなかった。靴の紐を切断して、靴から足を出してその指をもんで、一時的に凍傷からのがれることができたとしても、その足を入れるべき靴が、紐がないために靴としての役目を果さなくなったならば、この深雪から脱出はできなかった。  加藤は耐えた。足指の激痛に耐えながら、その激痛のあとに、間もなく訪れて来るだろう足指の凍傷を思った。靴下を四足はいても、五足はいても、彼の体内の熱量の補給がないかぎり、寒さには勝てないのだ。  明け方になると足指の感覚はまったくなくなっていた。凍傷になったのだ。だが彼の足はまだ健全であった。吹雪は|止《や》んでいた。雲がかかっていて山は見えないけれど、|彼《かれ》|等《ら》の帰路は|瞭然《りょうぜん》としていた。  二人は最後の石油を使って、湯を沸かし、その中にクリームチョコレートを三個入れて溶かして飲んだ。それが|朝《あさ》|餉《げ》であった。あとに四個のクリームチョコレートが残った。食糧はそれだけだった。  それまで彼等の生命の燃焼を支えて来た携帯用石油コンロは、もう不要であった。二人は疲れ果てていた。荷物はできるかぎり軽くしなければならない。  携帯用石油コンロは雪洞の中に置き去りにされた。吹雪ではないし、帰路もはっきりしていたから、ザイルも不要だった。加藤はザイルを輪にして石油コンロのそばに置いた。 「さあ、今日中に湯俣へ行こう。湯俣まであとわずか一里(四キロ)だ」  加藤は宮村にいった。  今日こそ生きるか死ぬかの最後の|賭《かけ》の日だと思った。宮村は加藤の意を察して、大きくうなずいたが、その顔にはなんらの感動も認められなかった。ただぼんやりそこに突っ立っているような姿だった。  加藤は雪の中に一歩を踏みこんだ。一夜の間に新雪の表面が固くなっていた。ぼこんぼこんと靴を飲みこんで、引き上げるときに、固くなりかけた表面に靴が食われた。雪の状況はちっともよくはなってはいなかった。  加藤は十歩ほど歩いてふりかえった。  宮村は雪の中に坐りこんでいた。      10  宮村は、|蹌踉《よ ろ ば》いながらもまだ歩くつもりはあった。深雪の中に腰をおろして、しばらく休むとまた歩いた。 「おい宮村君、どうした。われわれは今日中に湯俣まで行かねばならないのだ。湯俣につけば小屋もある。食べものもあるし、湯もあるのだぞ。さあ|頑《がん》|張《ば》ろう、あと一里だ」  加藤がそういうと、宮村はうなずいて歩き出すが、ものの二十歩か三十歩で、また雪の中に坐りこんでしまう。体力の限界点に来ているようであった。頭もすでに混迷しかけているらしく、 「いやに今日は暖かいんだね加藤さん」  などという。吹雪は止んでいたが太陽は出ていなかった。厚い雲の下には、ちらちらと雪が降っていた。暖かいどころか、加藤にしてみると、腹の底にしみる寒さだった。加藤は、宮村の腕をつかんで引きずるような格好で歩いていった。並んで歩くことはない。加藤が先をラッセルして、そのあとを宮村が歩けばいいのだが、宮村にはひとりで歩くだけの力はもうなかった。 「このくらいの雪に参ってしまうなんて、みっともないぞ。関東の|奴《やつ》|等《ら》に笑われるぞ」  加藤が宮村の背をどやしつけると、宮村はそれで幾分か正気を持ちかえして歩こうとするのである。このような状態になっても、宮村の中には関東の登山家たちに笑われまいとする関西人登山家としての魂が眼を覚ましていた。  加藤はしきりに宮村に言葉をかけた。彼の肩を|叩《たた》いたり、背をどやしつけたりした。そのようにして知覚にうったえないかぎり、すぐ宮村は雪の中にのたりこんでしまうからであった。  宮村が幻視や幻聴になやまされていることは、彼がときどき、大きな声で返事をしたり、時には声を出して笑うことによって明らかであった。なにを見、なにを聞いているにしても、歩いてくれればよかったが、幻視や幻聴が起ると立ち止ってしまうから世話が焼けた。 「しっかりしろ、もう少しだ」  と声をかけたり、時によると、力いっぱい、宮村の|尻《しり》を叩いてやると気がついて、 「加藤さん、すみません」  というのである。宮村は、あきらめてはいなかった。加藤に介抱されながらも死地から脱しようと努力しているのは|悲《ひ》|愴《そう》であった。宮村は|身体《か ら だ》中からしぼり出すような勇気をふるって、しばらく進むとまた雪の中に坐りこんだ。言葉ではげましたり、肩を叩いたぐらいでは動かなかった。雪の中に坐りこむと、彼は眼をつぶった。それでも、そこにそうしたかたちでじっとしていると、いくらか疲労が|恢《かい》|復《ふく》するらしく、また歩いた。この歩行と休養の時間比が、ずっと休養の方に重く傾いていって、ややもすると、加藤自らも、それに引きずりこまれて、宮村と共に雪の中に眠りこんでしまいそうになった。  午後になって再び雪になった。暴風雪とまではいかなかったが、あたりが暗くなり、森林が鳴り出した。 「海が見えなくなった」  と宮村健が突然叫んだ。はっきりした声だったが、こんな場合に宮村がなぜそんなことをいったのかわからなかった。あるいは宮村が幻視の中に神戸の海を見ていたかもしれない。彼は海を見ながら、神戸アルプスを歩いていたのかもしれない。 「宮村君、海がどうしたんだ。しっかりしろ、ここは高瀬川の上流の天上沢だ」  加藤は宮村の肩を揺さぶり、背を叩いたが、正気にはかえらなかった。宮村の眼はあらぬところを見詰めていた。狂った眼のようでもあった。声を掛けても、どやしつけても反応がなかった。宮村はそこにいる加藤の存在すら頭から消えたようであった。|頬《ほお》を叩いても表情を変えなかった。耳に口をつけて叫んでも、ピッケルで尻をぶんなぐっても、遠くに逃げていく彼の魂を呼びもどすことはできなかった。  不思議なことに彼は雪の上に坐った姿勢だけは崩そうとはしなかった。宮村はまだ生きていることをそうすることによって示そうとしているようであった。だが、|頑強《がんきょう》にも思われるほど、雪に根をおろした彼も、三十分ほど|経《た》つと、突然崩れた。死んではいなかった。宮村の鼻孔から出る白いかすかな息が、彼がいま永遠の安息に向って旅立とうとしていることを示しているようであった。  加藤は時計を見た。午後二時であった。  深雪であったが、湯俣まで行こうとして行けないことはなかった。行けば自分は助かるにちがいない。だが加藤にはその決心がつかなかった。いまや宮村に一分の|奇《き》|蹟《せき》を求めることもできなかった。が、彼はまだ生きていた。死んだも同然であっても、彼はまだ生きているのである。生きている友を|棄《す》てて自分だけ生きようとは思わなかった。  加藤はその場にピッケルで縦穴を掘って、その中に宮村をひきずりこんだ。夜のための用意であった。加藤はこれだけのことをするのに二時間あまりを費やした。気が遠くなるほど苦しい仕事だった。  加藤は宮村に付きそっていた。降る雪を払ってやるぐらいのことしか、してやれることはなかった。宮村はときどき身体を動かしたが、決して眼を覚まそうとはしなかった。ものもいわなかった。 「宮村はもう死んだも同然だ。死人につき添って、お前までが死ぬことはあるまい。いまのうちならまだお前は助かるチャンスがある。いまここを出れば第三|吊《つり》|橋《ばし》あたりまでいける。その近くに岩小屋がある」  第二の加藤が第一の加藤に|囁《ささや》きかけたが、加藤は首をふった。 「いまおれは単独行の加藤文太郎ではない、相手がいるのだ。パーティーを解消することはできない。なぜならば、宮村はまだ生きている。パーティーは存在しているのだ」  その夜、加藤は空腹と寒気と、幻視幻聴に悩まされ続けていた。下半身の感覚が薄れていくような気がした。足指の先から始まった凍傷は下半身をおかしていくようであった。  彼と並んでいる宮村の体重は、加藤に重くもたれかかっていた。生きている気配はもう感じられなかったが、死んだという確証もなかった。たとえ、宮村が死んでいたとしても、加藤はその死体と一夜を明かすことを決して|嫌《きら》ってはいなかった。  夜明けのきびしい寒さで加藤は眼を覚ました。頭がはっきりしていた。  加藤は、隣の宮村を見た。白い息はもう見えなかった。顔は|蒼《そう》|白《はく》になり手足は棒のようになっていた。|瞳《どう》|孔《こう》は完全に開いていた。すべての表情が消えた安らかな顔だった。  宮村健は死んだ。 (宮村君、立派だったぞ)  加藤は宮村にそう声をかけてやりたかった。ここまで頑張ったのは宮村だったからできたのだと思った。死んだという現実を前にしても、加藤は不思議に悲しみというものが|湧《わ》いて来なかった。それは、宮村の死体と一夜を共にしたことによって充分な|訣《けつ》|別《べつ》を告げていたというのではなく、やれるかぎりの努力をつくして、もはやなんの心残りもないということであった。あるいは、その夜の寒さで加藤の中のあらゆる情緒の感覚が、すでに凍死していたのかもしれない。涙は出なかった。  加藤は静かな眼でしばらく宮村を見おろしていたが、やがて、宮村のサブザックの中に水筒を入れ、それを|枕《まくら》にして宮村の頭を北に向け、ピッケルをその枕元に立てて置いた。遺体発見の目じるしにするためだった。彼の枕元にささげるべきものがなにひとつないのが|淋《さび》しい気がした。  加藤は、四個のクリームチョコレートが残っていることを思い出した。最後の共同の食糧であった。  加藤は、宮村の分としての二つのクリームチョコレートを死者の枕元に供えた。銀色の包み紙は朝の光を反射して輝いた。 「おい宮村、食べろよ」  加藤は宮村にそういうと、加藤の分のチョコレートの包み紙を取ろうとしたが指先が|利《き》かなかったから、歯でむきとった。二個のクリームチョコレートは石のように固くなっていた。口の中に入れて溶けるまで、しばらく時間がかかった。なにか口の中に氷のかたまりを入れたようであった。やがてチョコレートはやわらかになった。|噛《か》んだ。チョコレートの味がしなかった。クリームの甘さもなかった。ざらざらと半分凍りかけた氷を食べているような気持だった。 (チョコレートは凍るとこうもまずくなるものであろうか)  加藤はそう思いながら、飲みこんだ。疲労と寒さで、加藤の舌の感覚が、おかしくなって来ているのだとは気がついていなかった。水が欲しかったが、水は一滴もなかった。水は|湯《ゆ》|俣《また》の小屋まで行かないと得られなかった。そこには湯がある。凍った彼の身体をあたためてくれる湯があるのだ。  加藤は生還への一歩を歩み出した。 (加藤文太郎に敗北はない。おれは不死身の加藤文太郎なのだ。これから、自分の思うとおりの単独行ができるのだ)  加藤の心は澄んでいた。  加藤は一歩一歩をたしかめるように歩いていた。湯俣まで行くにはそれに応じた歩き方をしなければならない。五日間ろくろく食べていない彼の|涸《か》れ果てたエネルギーの|総《すべ》てを上手に使わねばいけない。  加藤は深雪に|挑戦《ちょうせん》していった。足が思うように動かなかった。ゆうべのビバークで両足の凍傷はさらに上部に|侵蝕《しんしょく》していったもののように思われた。気はあせっても、動かない足は歯がゆいばかりだった。  日が出た。幾日かぶりで見る日ざしであった。そこにそんなに青い空があったかと思われるようによく澄んだ空があった。|陽《ひ》に当り、身体が暖められるといくらか元気は出たように感じられるけれど、日が出ると雪の上層部がやわらかになって、かえって歩きにくかった。 「いい天気じゃあないか、地図遊びに出かけようじゃあないか」  新納友明が話しかけて来た。新納友明はナッパ服を着ていた。頭は|坊《ぼう》|主《ず》|刈《が》りだった。 「おい新納どうしたんだ。この雪の中に、君は防寒帽もかぶっていないじゃあないか」  加藤がいった。そこには新納友明のかわりに、雪をかぶった木の根っ子があった。新納友明は、十数年前に、加藤がまだ研修所で勉強していたころ、彼に地図の見方を教えてくれた友人だった。十数年前に病死した新納友明の幻視を見たと気がついたとき、加藤は、自分が置かれている危うい位置に恐怖を感じた。宮村は幻視と幻聴の間をさまよいつづけて死んだ。一日おくれて、同じことが、自分の身に起り出したのだと思った。 「いや、おれは幻視幻聴なぞには負けないぞ、おれは他の人間とは違うのだ。単独行できたえ上げた、|強靱《きょうじん》な肉体と精神力を持っているのだ。おれにはヒマラヤという目標があるのだ。ヒマラヤに向って、いまおれは歩きつづけているのだ。死んでたまるものか」 「そうだ加藤君、きみにはぜひヒマラヤに行ってもらわねばならない」  藤沢久造が加藤と並んで歩いていた。 「いつだって、行けといわれれば行きますよ。ヒマラヤ貯金は三千円になりました。これだけあれば充分でしょうね、藤沢さん」 「金はそんなには要らないだろう。実は、今度、君はヒマラヤ遠征隊員として選ばれたのだ。ヒマラヤの雪が君を待っているぞ、ヒマラヤの雪がな……」  藤沢久造の声が聞えなくなって、彼の足音だけが聞える。雪を踏む足音である。たしかに、その音はアイゼンで固い氷を踏む音であった。 「そうだ、おれはいまヒマラヤへ来ていたのだ。ヒマラヤの氷を踏んでいるのじゃあないか」  その加藤のアイゼンがヒマラヤの氷にはまりこんで抜けなかった。こんなはずはない。こんなばかなことがと、やっと、ヒマラヤの氷から足を引き抜いた反動で、彼は雪の中に倒れた。彼は現実にかえった。  そこには白い死の世界だけが彼を待っていた。  加藤はピッケルを握りしめた。ひどく暖かだった。足元から吹き上げて来る風の中には春のにおいがあった。加藤はその春風の源を追うように視線を延ばしていった。彼の足元から石段がずっと下に延びている。故郷の浜坂の|宇《う》|都《づ》|野《の》神社の石段だった。石段の下の方で少女が泣いていた。花子である。|下《げ》|駄《た》の鼻緒を切らして泣いているのである。 「どれ、その下駄の鼻緒をすげかえてやろう」 「でも、加藤さん、あなたにそれができるの、あなたの手のゆびは凍傷しているのでしょう」  そして彼女は、青空を突きぬけていくような大きな声を上げて笑った。園子であった。 「園子さん、どうしてここへ」 「満州から来たのよ。宮村さんと、ここで落合う約束なのよ」 「宮村君と?」 「そうだわ、私たち結婚することになったのよ」  ほら、あそこに宮村さんがいるでしょうと、園子がいうのでふりかえると、宮村健は大きなルックザックを背負って、深雪を踏みしめながらやって来る。 「宮村君、お前生き返ったのか」 「なにをいっているんです加藤さん、ぼくは前からずっと元気なんですよ。さあ加藤さん、手を引いてあげますから歩きましょう。湯俣はすぐそこです。こんなところで愚図ついていたら、日が暮れる」 「そうだったな、君は死んではいなかったんだな」  加藤は宮村に手を取られながら雪の中を進んだ。なにかにつかえて転んで、雪の中に頭を突込んだ。呼吸が止りそうに苦しかった。  それからは、いろいろの人が次から次と彼に声をかけてきた。立木勲平海軍技師が現われたり、佐倉秀作が出てきたりした。  影村技師の冷酷な顔は間断なく現われたが、決して加藤に話しかけようとはしなかった。 「加藤さん、ごはんですよ」  と下宿の|婆《ばあ》さんから声をかけてくることもあった。その下宿の手伝いをしていた金川義助の妻のしまが、幼児を背負って現われて、 「加藤さん、あなたは、うちの人の居どころを知っているはずです。さあこれから、そこへつれていって下さい」  などと血相をかえて加藤を責め立てたりした。  頭の中ががんがん鳴った。非常に多くの人が勝手放題なことを加藤の耳元でいっているのがうるさくてしようがなかった。両手で耳をおおっても、その声は聞えて来るのである。  加藤は雪の中に立ちすくんだ。 (そうだ。寒かったので、この数日間ほとんど眠っていない。幸い今日は日が出ている。仮眠したら、また元気が出るだろう)  加藤は、雪の上にサブザックを敷いて、|膝《ひざ》を抱いた。夢の中でも、うるさいほどの|囁《ささや》きがあったけれど、彼は眠った。どのくらいの時間だったかわからないが、彼が眼を覚ましたときには、日は|北《きた》|鎌《かま》|尾《お》|根《ね》にかくれていた。腕時計は止っていた。  加藤は腰を上げた。左側に見える北鎌尾根の地形から見て、彼の位置は千丈沢と天上沢の出合に近いところらしかった。第三|吊《つり》|橋《ばし》はもうすぐである。  日が山にかくれると、寒さがまた彼をしめつけてきた。いそがねばならないと思った。どんなことがあっても第三吊橋まで行かねばならない。そこに岩小屋がある。  加藤はまた歩き出した。おそらくあそこあたりが第三吊橋だろうと思うけれど、そのわずか五百メートルか六百メートルのところが歩けないのである。足が持ち上らないのである。自分の足ではないように重かった。  北鎌尾根の東斜面は暗かったが、右側の牛首山のあたりには陽が当っていた。そこから眼をずっとおろして、|千《せん》|天《てん》|出《で》|合《あい》の方へやると、そこのもう暗くなったあたりに、ひとかたまりの動くものが見えた。それはやがて縦に延びて、こっちをさしてやって来るのである。 (救助隊がきたのだ)  加藤はそう思った。 (救助隊が来るとすれば、その隊長は……)  外山三郎でなければならないような気がした。そして加藤は間もなく、救助隊の先頭に立っている外山三郎を見ると、思わず手を上げて叫んだ。外山がそれに応じた。外山の声が聞える。 「心配したぞ、まあ無事でよかった」  と外山三郎はいった。 「加藤文太郎のことだ、絶対大丈夫だとおれがいったとおりだろう」  志田|虎《とら》|之《の》|助《すけ》が得意そうな顔でいった。あとの三人は知らない顔だった。 「加藤君、ぼくに黙って山へ出かけるとは、けしからんじゃあないか」  外山三郎に、たしなめられると加藤は頭を|掻《か》いた。そうだ、出発する前日、外山三郎を会社の廊下で見かけたとき、加藤の方からわざとさけたのだ。 「単独行しかやったことのない君が、生れて初めてのパーティーを組んでの山行に失敗したということは、きわめて皮肉な証明方法によって、パーティー山行を否定したことになる」  外山三郎がいった。 「皮肉な証明方法といえば、そうかもしれません。いい経験でした。要するにパーティー山行で起り得る遭難は、そのパーティーを組んだ瞬間に約束されているってことでしょう」  加藤はそう答えた。  外山三郎の家の応接間に電灯が|煌《こう》|々《こう》と輝いていた。外山夫人が、長田神社前で売っている五色|力餅《ちからもち》の入った大きな|皿《さら》を持ってきて加藤の前に置いた。  加藤はそれに手を出した。手がとどこうとするところで、五色力餅はひとつずつ消えていった。  日暮れとともに天上沢にそって吹きおりて来る風が冷たかった。  加藤は、そのときほどはっきりと自分の孤独の姿を見詰めたことはなかった。  加藤は死に直面しつつある自分を感じた。死と生のきわどい境界を|彷《ほう》|徨《こう》しているのだと思った。前にもそういうことが何度かあったが、すべて自力で通りぬけてきた。今度も、死と戦って負けるとは思っていなかった。生きて帰らねばならない——神戸には花子と登志子が待っているのだ。  加藤は花子と登志子を見詰めた。花子と登志子以外になにごとも考えまいとした。そうすればいままでのように唐突な幻視幻聴になやまされないで済むだろう。  一月四日には神戸に帰るといったのに、まだ帰らない自分のことを、花子はどんなに心配しているだろう。おそらく花子は眠れないでいるだろう。彼の神戸の家の|隅《すみ》|々《ずみ》まではっきり見えるし、花子と母のさわとの会話も聞えてくる。 「花子、そんなに心配したってどうにもならないでしょう。お前がここで心配したからって、加藤さんが早く帰ってくるということはないでしょう。外山さんにお願いしてあることだから、あとはただ待つしか方法はないのですよ」 「ただ待つだけなの、お母さん——」  花子の大きな眼に涙がたまった。 「このまま、永遠に、彼の帰りをこの子と二人で待つことになったら?」 「ばかだねお前、ものごとは、悪い方に考えると悪い方にいくものさ。加藤さんはきっと帰ってくる。今夜にでも、どうもおそくなってすみませんといって帰ってきますよ。そう考えていれば、ほんとうに帰って来る」  さわは声を高めて花子にいったが、花子の眼から涙は引かなかった。その涙が|溢《あふ》れ出して、花子の膝の上の登志子の|頬《ほお》を|濡《ぬ》らした。登志子が泣き出した。 「花子、不吉だわ、その涙、ごらんなさい。登志子が泣き出した……登志子が神経質になったのは、お前が神経質になったからよ。乳が出なくなったでしょう。心配しすぎるからだよ」  さわは花子をそう|叱《しか》って、顔をそむけるのだが、さわの顔には花子以上に不安な|翳《かげ》が刻みこまれていた。 「お母さん、あの人はなぜ、雪の山へなんか行ったのでしょう。私と登志子を残して」 「同じことを、いまごろ加藤さんは気にしているでしょうよ。なぜおれは花子や登志子を残して、こんな寒い、どこを見ても雪ばっかりの山へなんかきたのだろうかってね」 「だってあの人は、行きたくて行ったのよ」 「行きたくて行ってもね、男というものは、ほんとうは、行ってしまったことを悔いているものですよ」 「だから聞いているのよ、お母さん。なぜあの人はそんなに山へ|牽《ひ》かれて行ったかって」 「私にもわからない——おそらく加藤さんにもわからないに違いない。わかっていても口にはいえないのだろうよ」  花子とさわの会話はそれで止った。二人の影が障子にうつったまま動かない。  加藤はその障子の影に向って話しかけた。 「なぜ、お前たちを残して山へ来たかって。そのわけは、家へ帰ってからゆっくり話してやろう。いまおれはいそがしいのだ。お前たちと話している暇はないのだ。暗くならないうちに、第三|吊《つり》|橋《ばし》までどうしても行かねばならない。そこまで行けば、岩小屋がある。そこでもう一晩泊って、翌朝になると、今日の暖かさで溶けた雪の表面は、一夜の寒さでかちかちに凍る。そうなると、氷の上を歩くように楽に湯俣まで行ける。第三吊橋からは道もしっかりしていることだから、まず一時間だ。一時間歩けば湯俣の小屋へつくことができるのだ」  加藤は歩いた。第三吊橋まで行きつけたら、家へ帰ったも同然なような気がした。  今日は一月何日だろうかと考える。六日だったか七日だったか、あるいは八日だったのかわからなかった。北鎌尾根に出かけた日からのことをいちいち数えてみる気もなかった。とにかく数日は食べてもいないし、ろくろく眠ってもいない。そして今日一日は、水を一滴も飲んでいないのである。 (しかし、おれはまだ歩ける。もう一日歩く自信と体力はあるのだ)  沢がせまくなってきた。両側に森林が迫っていて、まだ夜にはならないが夜のように暗かった。第三吊橋に近くなったからだった。  足が重かった。なんとしても雪に|喰《く》われた足を引き上げることができなくなって、そこにたたずむことが多くなった。夜が近くなり、目標が近くなると、不思議に頭がはっきりした。いよいよ動けなくなると、ピッケルにすがって息の乱れを調整した。  吹きだまりの雪の中に胸まで入って、そこを、ほとんど手の力で|這《は》い出したところで、加藤は第三吊橋を見た。第三吊橋は雪におおわれていた。 「勝ったぞ、おれは生還できたのだぞ」  加藤は吊橋に向っていった。  北鎌尾根に入ってから今日まで、人工物にはなにひとつとして行き当ったことはなかった。そこに第三吊橋を見たことは、人の住む里への帰路を発見したことであった。 (よしあとは岩小屋を探すことだ。たしかにこの辺に岩小屋があるはずだ)  加藤は周囲に眼をやった。  景色が急速に暗転していった。太陽が雲に入ったときの推移のようではなく、突然|日蝕《にっしょく》が起ったような暗くなり方だった。  眼の前にあった吊橋が消えて、そこに、長田神社の常夜灯が見えた。加藤の家は、その|灯《ひ》を右に見て、通り過ぎたところを左に曲ればよかった。曲り角の家の犬が、加藤に|吠《ほ》えついた。いつものことである。加藤がピッケルを上げると、その犬は|尻尾《し っ ぽ》を巻いて|塀《へい》の中へ逃げこんで、そこでまたうるさく吠え立てた。  加藤の家の門灯が見えた。障子も明るかった。花子は起きているのだ。加藤は花子に、最初にかけてやるべき言葉に迷った。あまり驚かすようなことをいってはいけない。さてなんていおうかと考えているうちに、家の門の前に立っていた。  |格《こう》|子《し》|戸《ど》の鈴が澄んだ音を立てて鳴った。 「花子さん、いま帰ったよ」  加藤はそういってから、そうだ、花子さんではなく、花子と呼ばねばならなかったのだなと思った。加藤の|唇《くちびる》に微笑が浮んだ。 「疲れたよ、こんなに疲れたことはいままで一度もなかった」  加藤はつぶやいた。眼をつぶると、疲労が身体の隅々にまでゆきわたっていって、もう手を上げることも足を上げることもできないほどだった。 「だが、とうとうおれは家に帰ったのだ。ゆっくり眠ることのできるわが家に帰ったのだ」  加藤は雪の中に腰をおろして、二度と覚めることのない眠りに入っていった。  花子はそのとき、登志子と|添《そい》|寝《ね》しながら、まどろんでいた。予定の日を過ぎても帰らない加藤のことを心配して、この三日ばかりほとんど夜は寝ていなかった。その疲れが出て、ついうとうとと眠ってしまったのである。外はまだ薄明るかった。母のさわは台所で夕飯の支度をしていた。  花子は眠っていながら、加藤の足音を聞いていた。彼を送り出して行ったとき、彼女と共に歩いたあの|登《と》|山《ざん》|靴《ぐつ》の音が、力強く、正しい間隔をもって帰ってきた。まるで、時計の振子のように正確だと花子は思った。加藤の靴音は家の前で止った。 「花子さん、いま帰ったよ」  加藤の声が聞えた。 「はあい」  花子は大きな返事をして飛び起きた。登志子がびっくりして泣き出したが、かまってはいられなかった。  花子は玄関へ走った。加藤はいなかった。確かに靴音を聞き、彼の声を聞いたのにいないはずはなかった。彼女は|下《げ》|駄《た》を突っかけて外へ飛び出して、家のまわりを探した。加藤らしき姿はなかった。花子は長田神社の前まで走った。常夜灯にはもう明りがついていた。そこにも加藤の姿はなかった。 「お母さん、あの人が帰ったでしょう。どこへ行ったの」  花子は、その加藤を、母のさわがかくしてしまったようないい方をした。 「加藤さんが帰ったの、いつ?」  母は|怪《け》|訝《げん》な顔をした。 「さっき、玄関で、花子さん、いま帰ったよ、と大きな声でいったでしょう」  母は、その花子の顔をびっくりしたような顔で見ていたが、その顔は次第に|蒼《あお》ざめていった。 「もしや加藤さんは……」  その母の声をおそろしいことの宣告のように花子は聞いた。足がすくんでしまいそうだった。登志子の泣き声が激しくなった。ただの泣き声ではなく、泣きむせぶ声だった。花子は、奥の部屋へ行って登志子を抱いた。花子に抱かれた登志子はすぐ泣き|止《や》んで、まだ見えない眼を、柱にかけてある掛時計にやった。掛時計が五時三分で止っていた。結婚記念として会社の同僚からもらった二週間巻きの掛時計だった。いままで一度も故障が起きたことはなかった。時計のネジを巻くのは加藤の役目だった。先月彼が家を出る前日にそのネジを巻いた。それからまだ二週間は|経《た》ってはいなかった。止った時計の振子を見詰めていると、涙が|湧《わ》いてきた。そのとき花子は加藤の死を確信した。 「登志子お前のお父さんは、いま|亡《な》くなられたのよ。いま私たちにお別れに来てくれたのよ」  そして花子は声を上げて泣いた。  北鎌尾根に消えた加藤文太郎と宮村|健《たけし》の消息は、数度にわたる捜索を|以《もっ》てしても|杳《よう》として不明であった。  加藤文太郎の遺体が天上沢第三吊橋付近で発見され、さらにその上流で宮村健の遺体が発見されたのは、その年の四月に入ってからであった。 [#ここから2字下げ]  加藤文太郎は実名である。未亡人の花子さんからぜひ実名にと言われたのでそのようにした。本人とは富士山観測所に勤務中に一度会ったことがある。参考文献としては加藤文太郎著「単独行」を使わせていただいた。 [#ここで字下げ終わり]     解説 [#地から2字上げ]尾崎秀樹   新田次郎の山岳小説を読んでいると、その裏に作者の|人《ひと》|柄《がら》がひそんでいるように思える。当然なことかもしれないが、時代小説からミステリアスなものまでを手がけている彼の仕事のなかで、山岳ものがしめる位置はいちばん作者に近く、またその実感をこめたものとして読まれる。  なぜ新田次郎は山岳小説を書くのだろうか。もちろんそれは彼が山をこよなく愛するからであろう。ではなぜ彼は好むのだろうか。山国に育ったことが理由の第一と考えられる。おそらく故郷から遠く離れて、都会の|喧《けん》|騒《そう》の中に身をおくと、郷愁に似たものが動くのだろう。山に関係の深い気象学の専門家だったことも深くかかわっているに違いない。直接|訊《たず》ねたわけではないのではっきりしたことはいえないが、中央気象台(現在の気象庁)に就職したのも、彼のおじに藤原咲平というお天気博士がいたこととあわせて、山好きの彼が意識して選んだ道だったのではないだろうか。  昭和七年に二十一歳で気象庁に就職し、満州時代を間にはさんで昭和四十一年まで長くその分野で活躍した。しかしその業績は作家新田次郎ではなく、科学者藤原寛人の仕事であり、それをみごとにしわけてきたところに、この人の|篤《とく》|実《じつ》さがみられた。いつだったかある新聞のインタビューで、吉祥寺に住む彼が、自宅から駅への途中までくると、パチッと音をたてる感じで役所の方に頭が切り替り、夕刻気象庁を出てお茶の水駅までくる途中で、またパチッと小説のほうに切り替ると語っているのを読んだ記憶がある。談話だったか、インタビューアーの記事だったかはっきりおぼえていないが、そのくだりを読んだとき、彼の仕事へのきびしさを教えられる思いがした。  実際に気象庁の測器課長として、富士山頂のレーダー建設にしたがい、みごとその大任を果して文筆一本に転進したといわれることなども、いかにもこの人らしい態度だった。けじめの正しさだけでなく、それぞれの仕事にうちこんだ姿が、そこに象徴的にしめされているように思う。  話がそれてしまったが、なぜ山を愛するかについて、彼自身の言葉がある。新潮社刊の〈新田次郎山岳小説シリーズ〉の帯にある言葉だ。新田次郎の山岳小説観を知ることのできる内容をふくんでいるので、ここに引用させてもらおう。 「なぜ山が好きになったのか私には分らない。山がそこにあるから、などという簡単なものではない。私が|信濃《し な の》の山深いところに育って、そして今は故郷を離れているという郷愁が私を山に|牽《ひ》きつけたのかもしれない。しかし、これは私なりのこじつけで、私のように山国の生れでない人で、私より以上に山を愛する人がいるのだから、山が好きだということは、もっと人間の本質的なものなのかもしれない。私は山が好きだから山の小説を書く。山好きな男女には本能的な共感を持ち、|彼《かれ》|等《ら》との交際の中に、他の社会で見られない新鮮なものを見つけ出そうとする。のびのびとしたように見えていて、実は非情なほどきびしい山仲間の世界の中の真実が私には魅力なのである」  ここで大切なのは「山が好きだから山の小説を書く」という言葉のもうひとつ奥に、「非情なほどきびしい山仲間の世界の中の真実」が存在するということだ、彼はただ単に大自然の美しさにひかれるだけでなく、それに対決する人間の真情に共感をおぼえるのだ。 『孤高の人』は『山と|渓《けい》|谷《こく》』に連載され、昭和四十四年に新潮社から二冊本として出版された長編である。この本は不世出の登山家であった加藤文太郎の登山家としての|生涯《しょうがい》をたどっている。加藤文太郎は日本海に面した兵庫県の浜坂に生れ、土地の高等小学校を卒業後、神戸へ出て神港造船所の技術研修生となった。この研修生のコースは、当時としては画期的な人材登用の道であり、加藤はそれを優秀な成績で|卒《お》えて造船所に勤務することになる。加藤が山に|開《かい》|眼《げん》したのは研修生時代の級友の影響だった。さらに彼の才能に注目した外山技師のはげましもあずかっていた。彼の級友たちは前途を悲観したり、病気になったり、あるいは思想犯として捕えられたりして卒業までに|落《らく》|伍《ご》していったが、そうした人々への思いや、時代の|暗《あん》|鬱《うつ》な空気に対抗するために、彼は山へ登って心をまぎらしていたが、そのため彼の登山はいつも一人で、山岳会からの誘いにもいっさい加わらなかった。  加藤は夏山をひととおり踏破した後、昭和三年の暮にはじめて冬の八ヶ岳を征服し、以来冬山の魅力につかれるようになる。彼独自の訓練と装備によってつぎつぎと難コースにいどみ、自信をふかめてゆくが、その間彼自身山での人づきあいが下手であることに気づき単独行に徹底することを決心した。昭和五年大みそかから六年の正月にかけて決行した、富山県から長野県に抜ける|立《たて》|山《やま》連峰と後立山連峰の吹雪の中の十日にわたるコースは、そのひとつのピークであった。  加藤はその際雪山の中で|雪《せつ》|洞《どう》にまいこむ粉雪をみて、ディーゼル・エンジンの性能をたかめる画期的なアイデアを得、それを実用化することで技師に昇進し、登山家としての名声がたかまると同時に職場でも重要な人間となってゆく。加藤を英雄視し、登山家として彼のあとを追う宮村青年があらわれたのもその|頃《ころ》だ。加藤はやがて同郷の花子と結婚し、一児を得て、人が変ったように明るくなるが、宮村は失恋の|傷《いた》|手《で》を清算するために冬の|北《きた》|鎌《かま》|尾《お》|根《ね》を志し、加藤にパーティを組んでくれとたのむ。家庭をもって山行をやめようと考えていた加藤は、最後の機会としてそれを|諒承《りょうしょう》するが、彼ははじめて人と組んだこの登山で、宮村の無謀な計画にひきずられて遭難死してしまうのだ。  この作品の主人公である加藤文太郎は、生れながらの登山家だったようだ。�|地《じ》|下《か》|足《た》|袋《び》の文太郎�とか�単独行の文太郎�とかよばれ、関西はもちろん、関東にもその名を知られた人物で、それまでは限られた裕福な人々だけのものであった登山に、社会人登山家としての道をひらいた|草《くさ》|創《わ》けとして知られる。プロローグで神戸の|脊梁《せきりょう》山脈にあたる|高《たか》|取《とり》|山《やま》の頂上に立った若者が、一人の老人から加藤文太郎の話を聞く場面があるが、そこにも書かれているように、加藤は足が速く、他の追随を許さないだけでなく、人間としても立派な男だった。おそらくこの老人の加藤観は、作者自身のものでもあろう。「彼は孤独を愛した。山においても、彼の仕事においても、彼は独力で道を切り開いていった。仕事に対するときと同じ情熱を山にもそそいだ。昭和の初期における封建的登山界に、社会人登山家の道を開拓したのは彼であった。彼はその短い生涯において、他の登山家が一生かかってもできない記録をつぎつぎと樹立した」という評価は、加藤文太郎像をささえる軸ともなっている。  新田次郎は単行本の〈あとがき〉のなかで、「私は、加藤文太郎こそ社会人登山家の代表的人物であると思う。この偉大なる登山家を通して、『なぜ山へ登るか』という問題を解いてみたくてこの小説を書いた」と述べていた。これはこの作品をつらぬくつよいライト・モチーフだ。加藤文太郎の山にたいする考えかたは次第に深まってゆく。はじめはひとりで汗を流すために山へ行った。それは地図でみても、写真で|眺《なが》めてもわからない山そのものを、みずからの足で登り、みずからの目でたしかめることだった。だが冬山のきびしさに接することによって、彼の認識はもう一歩深められた。なぜ身を危険にさらしてまで山へゆくのだ? 彼はこの自問自答をくり返しながら、さらにその経験をかさねていった。そして彼は、「山の特権階級に|挑戦《ちょうせん》するために山へ行くのではなかった。記録をつくるためでもなかった。彼はいまや山そのものの中に自分を再発見しよう」とするのだ。それは苦行によって悟りをひらこうとするバラモン僧とあい通じるものがあった。困難な立場に追いこまれれば追いこまれるほど、加藤文太郎は人間的に成長していったのだ。  作者は富士山頂の観測所に勤務していたとき、この加藤文太郎に一度だけ会ったことがあるという。厳冬期の富士山をさながら平地を歩くような速さで登ってくるのに驚き、そのしぐさのひとつひとつが記憶にきざみつけられた。そして十数年前から加藤をモデルにした小説を書きたいと、構想を練ってきたそうである。こうして神戸に住む花子未亡人をたずね、その世話をしていたかつての上役にあたる遠山豊三郎(おそらく作中の外山技師であろう)とも会い、この二人から聞き出した回想を|活《い》かしながら、『孤高の人』をまとめたのであった。作中の主要人物がかなり実名で記されているのは、未亡人の意向にもよるものらしいが、この長編は加藤文太郎を敬慕する作者の心からなる鎮魂碑でもあるのだ。  新田次郎はこの加藤文太郎を二つの面でたかく評価している。ひとつは登山家としてだけでなく、社会人としてもすぐれた仕事を誠意をもって遂行したその人柄についてであり、もうひとつは直輸入的な登山技法ではなく、日本の山にあった独自な方法を、みずからの創意によって編みだした点であると思われる。  私はこの長編を読みながら、処女作『|強《ごう》|力《りき》|伝《でん》』以来、作者が山岳ものの中で追求してきた主題のひとつが、ここに結晶しているように思った。『|槍《やり》ヶ|岳《たけ》開山』の|播隆上人《ばんりゅうしょうにん》や、『|芙《ふ》|蓉《よう》の人』の千代子にもみられるひたむきなものがここにはある。作者は『孤高の人』の山男の真情に、人間の尊厳をみたのであろう。 [#地から2字上げ](昭和四十七年十二月、文芸評論家) 底本 新潮文庫の100冊 CD-ROM版(1996年) 孤高の人 新田次郎